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稲木紫織のアートコラムArts & Contemporary Vol.36

心の聖地を撮り続ける写真家
井津建郎作品展『もののあはれ』」
能の精神性に魂が震える

ニューヨークを拠点に50年間、独創的な作品を制作発表し、30数年間にわたって『聖地』を撮影、プラチナ・プリントによる表現を続けている写真家の井津建郎さんが、この5月、石川県金沢市に永住帰国。現在、国内4か所で個展を開催中だ。その中で、新しいシリーズである能面を撮影した作品展『もののあはれ』が、東麻布のPGIで始まった。この写真を目にした時、子供の頃から能を見続けてきた自分の中で、「これは今まで見てきた能の写真と何かが違う」と身体が反応した。アメリカに永住する予定だったという井津さんに、まず帰国理由から伺った。

「5月まで暮らしていた、ニューヨークから160キロ離れたラインベックの家は、敷地内にスタジオも建て、永住するつもりでした。ガラス張りのリビングルームにいると、林檎や梨の木、自分で植えた桜が見えて、シカやキツネ、リスが訪れ、妻(写真家の井津由美子さん)とも、『ここは楽園だね』って言い合っていたんです」

それが、トランプ大統領の2回目の選挙の時、国民の半数近くが彼を支持し、近所にもトランプを支持する標識が貼られた。アジア人へのヘイトクライムも増えており、家の周りを散歩する妻の由美子さんが「一人で歩くのが怖い」と言い出した。
普通に生活できないのはまずいと思い、急遽、永住帰国を決めたという。

井津建郎は1949年大阪生まれ。日本大学芸術学部で学んだ後、1971年渡米。1993年アンコールワット遺跡撮影のため、カンボジアを訪れる。以後、インド、ラオス、ネパール、インドネシア、ブータン、中東などの聖地を撮影。カンボジアの取材で、多くの子供たちが地雷の犠牲になっている現実を目の当たりにし、非営利団体フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーを設立。カンボジアとラオスに小児病院を建設し運営するなど、多くのプロジェクトに携わる。写真集は17冊を出版。作品はニューヨークのメトロポリタン美術館はじめ、多数の美術館に収蔵されている。

能面の撮影は、聖地を撮ってきたことと繋がるのでは?
「繋がりはやっぱりありますね。聖地のシリーズで2003年にブータンを撮り始めた頃から、お寺とか教会でなく、そこで祈る人々の心が聖地で、心の聖地より尊いものはないと感じていました。3年前、丹波篠山の能楽資料館を訪れたら、公立の博物館だったら重要文化財級のものがたくさんあるんですよ。すごいと思ったし、本当にいい面を見た時は、僕は能は素人ですけどズズーンときましたね」

撮影させてもらえることになり、笹山能楽資料館の座敷で能面と一対一で対峙しながら、撮り続けてきたという。「オーナーの中西さんがオープンな方で、能面はガラスケースの中に仕舞っていては死んでしまう、役者さんが付けて舞ってこそ生きる。写真も同じで、好きに撮ってくださいと。ケースから出すだけでもリスクがありますが、僕の好奇心というか写真家の欲で、撮るからには、ガラスケースの中に入っていては感じられないものを引き出したい、と思って撮影しています」

一ノ谷の合戦で、16歳で命を落とした平敦盛をモデルにした、『十六』という銘のある面を、井津さんは能役者に演じてもらって撮影。「素晴らしい面で、僕も惚れ込んじゃってね。あの面を付けて舞っているところを撮影したいと、京都で能舞台を持っている方にお願いして使わせていただきました」

能の所作には様々なものがあり、なかなかマニエリスティックなのだが、泣いているところを表す「シオリ」という型がある。指を伸ばして揃え、斜めに顔を覆うようにして面を伏せるのだが、自分と同名なので、やはり気になる。悲しみの表現だが、この写真はそこはかとない色香を感じさせ、見入ってしまう。

面が呼吸しているかのように、生々しい息吹を感じられる写真たち。そして、能面だけでなく、資料館周辺の自然や、道端の草花に“儚き美”を見出した静物写真とともに展示されているのが井津さんらしい。篠山の山の入口にあるという町の鎮守様、春日神社の佇まいに霊気を感じた。

「そこは非常に気配が濃厚で、何回も何回も行きました。中西さんの息子さんに車を出していただいて…」と、井津さんは愛おしそうに語るのである。神社の裏手の林には、吸い込まれそうにスピリチュアルな大気が漂っている。御神木の大樹からどうしても目が離せない。

数点展示されている草花の写真が、儚げで美しい。枯れてゆくダリアやハナミズキの﨟󠄀たけた美しさといったら、まさに能の美意識に繋がっていると思う。コロナ下のステイホーム・プロジェクトで、家の周りの花を撮り始めたそう。「自宅のスタジオで撮りました。花器はみんな、僕が持っていたもの。引っ越し間際の5月、荷物に囲まれながら、枯れてゆく花を撮影しました」

『もののあはれ』という言葉が浮かんできたのは、能面を撮り始めて2年程経ち、作品を俯瞰で見られるようになった頃。「ずっと気になっていた言葉です。アメリカに長いですけれど、僕にとってのアイデンティティは言語なんです。写真家だけれども、言葉を大切にする。便宜上、アメリカ国籍は取りましたが、自分のアイデンティティを大事にしたいという思いは、50年間ずっとありました。それが、能面に出会った時に出てきたんです」

「舞うといっても派手に飛んだり跳ねたりしない。ミニマムな動き、ミニマムな舞台装置なのに、これだけの精神性を出せるのは、僕にとって改めて“日本文化の粋”だと思います。日本人のアイデンティティとして理解したいし、エンジョイしたいと思います」と井津さんは結んだ。本展は2022年1月21まで。この清艶にして幽玄、“奥深き美しい精神性”に、ぜひ触れてほしい。

井津建郎作品展『もののあはれ』 http://www.pgi.ac

井津建郎 未発表作品展1975-2016『地図のない旅』 https://iwaogallery.jp

井津建郎写真展 作家活動50周年記念展『地図のない旅』 http://www.roonee.jp

井津建郎プラチナ・プリント写真展『アジアの聖地』 https://www.hanzomonmuseum.jp

「PGI」サイト https://www.pgi.ac


稲木紫織/フリーランスライター。ジャーナリスト
桐朋学園大学音楽部卒業
音楽家、アーティストのインタビュー、アート評などを中心に活動
著書に「日本の貴婦人」(光文社)など

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