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Yumikoの映画玉手箱08 女子高校生は暗闇を目指す

私が高校に入学したのは1955年、昭和30年でした。
もう学校生徒の映画館出入りの規制はなく、自由に観に行ってよくなっていました。

日本映画の黄金時代

当時日本映画は1951年に黒澤明監督「羅生門」のヴェニス国際映画祭グランプリをはじめ溝口健二監督「西鶴一代女」、「雨月物語」、衣笠貞之助監督「地獄門」、黒澤明監督「七人の侍」、稲垣浩監督「無法松の一生」、小津安二郎監督「東京物語」などが、ヴェネチア、カンヌ、ロンドンなどの国際映画祭でグランプリや銀賞に輝き、まさに日本映画の黄金時代。映画は敗戦後の日本が国の内外で立ち直り元気を出す原動力になっていました。

「西鶴一代女」1952、溝口健二監督。田中絹代_0001

『西鶴一代女』1952年 溝口健二監督作品。田中絹代主演。

「七人の侍」19554、黒沢明監督。三船敏郎、志村喬、宮口精二、千秋実、加藤大輔、木村功_0001

『七人の侍』1954年 黒澤明監督作品。三船敏郎、志村喬、宮口精二、千秋実。

「羅生門」1950、黒沢明監督。三船敏郎、京マチ子、森雅之

『羅生門』1950年 黒澤明監督作品。三船敏郎、京マチ子、森雅之主演。

もちろん、今ではこれら日本映画の至宝ともいうべき作品はすべて見ていますが、公開当時は女子高生だった私は、勿体ないことにほとんど見ていなかった。
代わりに夢中で見ていたのは、ハリウッド映画でした。映画はアメリカ文化の窓でした。
 
映画好きの友達T子とN子とトリオを組んで、放課後一緒に映画館を目指すのですが、ときに問題がありました。もともと私たちの学校は戦前から続く男子系高校で、東大も甲子園も!という“文武両道”を目指す伝統がありました。
週に何度か放課後に全員集合で野球の応援の練習があったのです。さぼる者がいないように要所要所で応援団員が見張っている。そこをどう突破するか。
3人で目配せ、呼吸を合わせて、それっと自転者を連ねて校庭の裏の坂道を一気に駆け下りますが、大抵は見張りに見つかる。「こら~っ」と大手を広げて立ち塞がろうとするのをひょいとかわして、すーっと下りてゆく。まるで馬の轡を並べて走り去るみたいに? 私たちは「カウボーイ」という色気のないあだ名をつけられていたらしいけど、今思うと、あれは見逃してくれていたのかも。

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