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なかほら牧場発、これからの食と農を考える⑤

我が国の酪農史

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我が国の記録に残る酪農史は平安初期にできた『新撰姓氏録』に高麗からの帰化人知聰の子、福常(別名善那)が第36代孝徳天皇(569~654)に牛乳を献上し、天皇から賞され和薬使主(やまとくすりのおみ)の姓を賜ったという記録がある。
その後、牛乳院という組織が作られ乳長上(ちちおさのかみ)という職掌が天皇御用の牛乳を搾っていたと記されている。
その後は仏教の普及もあり江戸時代まで記録として残されているのはほとんどない。江戸時代に入り8代将軍徳川吉宗が千葉県の嶺岡(現南房総市)に幕府直営の牧場を開きインドの白牛を飼っていたと記されている。それらはいずれも薬用、もしくは今風に言えばサプリメントとして飲用されていたにすぎない。
明治維新以後、多くの外国人が流入し、それを相手に横浜で搾乳業として酪農が始まった。それが維新で家禄を失った旧幕臣を中心とした殖産産業として注目をされ、大都市東京で搾乳業が隆盛を極めた。
その中には総理大臣を務めた山縣有朋、外務大臣や逓信大臣を務め東京農業大学の創始者でもある榎本武陽や大蔵大臣を務めた松方正義、野菊の墓で有名な小説家の伊藤左千夫など錚々たる人材が自ら牛を飼い搾乳業を始めたのである。
当時とすればもっともハイカラな産業だったのである。

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中洞正の酪農DNA

私の酪農家としてのDNAは母の生家である上屋敷家に遡る。上屋敷家は岩手県下閉伊郡田老町(現宮古市)末前という山村にあった。上屋敷家の5代目仁三郎(1885年~1965年)が昭和初期に乳牛を導入し酪農を始めた。それまでのその地域での農業は穀菽を中心とした自給自足の農業が主流だった。牛馬を飼う農家もあったがそれは役用の牛馬であり、堆肥をとるために飼育していたのみであった。
仁三郎は酪農の先進地である隣町の岩泉町で酪農の知識を学び酪農を始めた。
特に岩泉の佐々木家(屋号、橋場。現当主、佐々木宣和氏)から受けた影響は大きかった。佐々木家はその地域の名家であり当時の当主佐々木保五郎は「ベゴ保」とも呼ばれ県議会議員や岩泉町長を務めながら酪農の普及に尽力をしていた。保五郎の長男林治郎は東京大学教授で乳製品製造を研究する農学博士であり乳業会社の誘致に大きく貢献した。これが岩泉地域が全国的に「酪農の先進地」と呼ばれた所以である。

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仁三郎は佐々木家との交流の中から酪農に開眼した。具体的には保五郎の政治手腕と林治郎の研究者としての人脈から昭和4年に明治乳業を岩泉に誘致し牛乳の販売先が確保できたからであろう。岩泉での乳牛の歴史は明治23年小泉市兵衛が横浜の外人牧場から導入したことに遡るが、明治乳業が誘致されるまでは乳牛の飼育は牛体販売が主流で牛乳の販売先はなかったのである。子牛をとるためには必ずお産させなければならない。お産させれば当然牛乳は出る。売り先のない牛乳は自家消費するか捨てるしかなかった。
明治乳業の誘致によって牛乳の販売先が確保でき地域に真の酪農が普及した。仁三郎が酪農を始めたのもこの頃である。
母の記憶によると近くに田老鉱山と呼ばれていた硫化銅を産出する鉱山があり最盛期には約2,000人もの人口を有していたという。そこに牛乳を運び個別に売り歩いたともいう。
仁三郎の長男、安雄は仁三郎とともに家業の酪農を営んでいて、地域では名伯楽と呼ばれ牛の見立てや病牛の治療、難産の助産などに長けていて地域の酪農に大きな役割をはたしていた。
孫の有一は祖父、仁三郎や父安雄とともに家業の酪農を営んでいた。有一も仁三郎や安雄からの酪農技術を受け継いでおりそれが評価され、10代後半にたまたま乳牛を買い付けに来た東京都武蔵野市吉祥寺に今でもある焼き鳥屋「伊勢屋」の社長に出会い、それがきっかけで上京し「伊勢屋」の牧場で働くことになった。そののち杉並の豪農、本橋夫美が酪農を始めることになり本橋牧場に転職した。その後、林治郎の紹介で横浜にあった「日本配合飼料株式会社」の研究場に入り乳牛の飼料、育成、乳量の観察という仕事に従事した。
しかし、独立を夢見ていた有一は「日本配合飼料」を退社し20代後半埼玉県入間市宮寺で酪農兼家畜商として独立した。
また安雄は本橋が都市化の進む杉並から埼玉県深谷市に牧場を移転するにあたり牧場長として雇われた。深谷市に移転した本橋牧場は当時としては大規模酪農であり搾乳牛40~50頭ぐらい飼育していた。そこで飼われている牛は岩手から安雄などの手づるで導入したものが多くいた。
上屋敷家の長女に生まれた私の母は19歳で中洞家に嫁いだ。その影響もあり中洞家でも乳牛を飼い始めた。時、折しも国も酪農振興政策を相次ぎ打ち出したころである。
私が生まれた昭和27年にはすでに数頭の乳牛を飼育していた。物心ついたときは牛舎に入り浸り牛と戯れていた記憶がある。
 春から秋までは近くの山や河原に放牧していた。集落の牛を集め交代で牛を誘導する「ベゴまぶり」と呼ばれた監視人がいて柵もないところに牛をしていた。夕方になれば牛たちは自分の家を覚えておりまっしぐらに家に向かって帰り自分のスペースに入りおいしいおやつを食べるのである。「ベゴまぶり」人について行き日柄1日牛と戯れている日もあった。
 また搾乳しない若牛は岳(だけ)と呼ばれた奥山に放牧した。そこは下界の放牧地とは違い広大な草原が拡がっておりその風景はさながら桃源郷を彷彿させるものだった。愛くるしく可愛い牛と桃源郷の風景は幼い私の心に深く刻まれた。

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中洞 正(ナカホラタダシ)
1952年岩手県宮古市生まれ。酪農家。
東京農業大学客員教授、帯広畜産大学非常勤講師、内閣府地域活性化伝道師。
東京農業大学農学部在学中に、草の神様と呼ばれた在野の研究者、猶原恭爾(なおはらきょうじ)博士が提唱する山地酪農に出会い、直接教えを受ける。卒業後、岩手県で24 時間 365 日、畜舎に牛を戻さない通年昼夜型放牧、自然交配、自然分娩など、山地に放牧を行うことで健康な牛を育成し、牛乳、乳製品の販売を開始。
設計・建築、商品開発、販売まで行う中洞式山地酪農を確立した。
著書に『おいしい牛乳は草の色(春陽堂書店)』、『ソリストの思考術 中洞正の生きる力(六耀社)』、『幸せな牛からおいしい牛乳(コモンズ社)』、『黒い牛乳(幻冬舎)』など。

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