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へいわがだいじなの

2021年9月最初の訪問介護。

ヤエさん(仮名)は94歳の女性。最近までお元気だったのに、この夏の猛暑で急速に体力を奪われて、寝たきりになってしまった。私はお昼ご飯にレトルトのお粥を半分、器に入れてレンジで温める。ヤエさん、本当は食欲などない。でも食事を出されると、「食べないとね」と、ため息まじりにつぶやいた。

私はお粥をすくって、ひとさじ、ひとさじ口に運ぶ。食事の間に、こぼれるのは昔話。「みんぽうはね、こくみんがかえられるのよ」「民法、法律のことですか?」「そうよ」「すごい、法律の勉強をされたんですか?」「べんきょうかいでね。そりゃもう、ごはんをかみかみべんきょうしたものよ」「まあ、食事の間もですか」「へいわがだいじなの。なんていっても、へいわがだいじ」そう言って、ヤエさんはストローで手元のドリンクを吸い込んだ。その吸い込む息の力強さ。半パックのお粥は30分かけて間食した。

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その後に訪問したのはモモエさん(仮名、80代)。とてもほがらかでエレガントなモモエさんを見ると、私はいつも『魔女の宅急便』のニシンのパイのおばあさまを連想している。そんなモモエさんと、入浴介助が終わった後、余った時間でいろんなおしゃべりをするのが私の楽しみなのだった。

この日はパラリンピックの話題から、ブルーインパルスの話になった。私が「カッコいいですよね」と言うと、「あれね、テレビで見たけど、正直あんまりいい気持ちがしないのよ。編隊を組んでいるのを見るとB29を思い出しちゃって」「B29、見たんですか?」「見たわよ。飛行機で空が真っ黒になるのよ」瞬時にイメージが浮かぶ。戦闘機で埋め尽くされた黒い空。それが自分の上にやってくる。「・・・怖いですね」。

目の前にいる、ほがらかなモモエさんと、黒い空。

「へいわがだいじなの」。

やせた身体でお粥をひとさじひとさじ食べながら、ゆっくりとつぶやくヤエさんの声がかさなった。

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(2024年7月追記)
ヤエさんが旅立ったのは、それからほどなくのことだった。

弱った身体で、一生懸命に食べよう、生きようとしていたヤエさん。初めて会ったヘルパーの私に民法の話をしてくれたのは、それが若い時代の思い出話である以上に、それだけ大切なことだったのだろうと思う。

昨日の『虎に翼』67話、平田満さん演じる星朋彦最高裁長官が本の序文を朗読するシーンを見て、ヤエさんのことを思い出した。訪問介護の日記は、プライバシーもあるので一度下書きに戻したのですが、3年経ったこともあり、一部修正して公開します。




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