これでよかったんだと思おうと思う

まず一つ言っておきたい。同情して欲しいとは微塵も思っていない。
不幸自慢をしたいわけじゃない。
みんな悩んでいて違う種類中々の不幸をみんな抱えて生きていると思っているから。

ここ1、2年はほぼ毎日死にたいと思っていた。
高校卒業と同時に勤めていた会社の仕事内容は責任を増して高度な内容を求められるようになっていた。
さらに、通信制で美容学校にも通っていたため
「日々の仕事」に「国家試験の勉強」があったが、
自分だったら要領よく上手くやれるだろうと思っていた、今まで適当に取り繕いながら生きてきた自分ならと。
人生で努力したことはあまりない。
人付き合いにも大して困ったこともなく、中学そして高校と友人にも恵まれたし、高校受験では滑り止めの私立の高校を受けなかったので確実に合格できる都立の底辺高校に入学したので成績も悪くない。なんなら学内ではトップクラスだったので、
先生からも目をつけられず楽しく過ごしていた。
なんとなくこの調子でなんとかなるだろうと。 
大変ではあったが自分以外にも忙しい人はたくさんいると言い聞かせながら、「仕事」に「学校」という舟二艘に両足をひろげ跨ぎなんとかバランスをとりながら両手で櫂を握りしめ進んでいたが、
すぐに沈没することになる。


忙しく過ごしていた日々の中で家族の中で一歩間違えば死人が出る事件があった。
父と母に兄2人に姉1人と6人家族で暮らしていたが
問題抱えていて困った奴が3人いる、父と兄2人だ。
父はほぼうつ病、兄2人の仲は死ぬほど悪い。
幡ヶ谷に住んでいた頃の家中の壁に穴が空いていた。私が5歳くらいの時にちょうど思春期だった長男は学校へは行かず家の中で怒声や奇声をあげながら暴れ回っていた。
その頃母には黄色や青色のあざが体中にあった。
当時は目の前の圧倒的な暴力に泣くことすらできずただガタガタ震えていたのを未だに覚えている。
次男は長男からの暴力に必死に耐えていつか復讐してやると、怒りを燃やしていたため今でも死ぬほど仲が悪い。

しばらく落ち着いてはいたのだが、確執を持っていた次男の怒りが些細な口論から爆発し包丁を持ち出すことになったのである。兄2人は多分精神疾患を抱えていると思う。
次男は父と兄に刃を向け
「自分がおかしくなったのは、昔からの家庭環境が悪かったせいだ」
と声を震わせながら怒りに満ちた表情で涙を流していた。
その時の光景を一生忘れることはできないと思う。

威嚇のためか前に伸ばした刃の先端は父の額に触れ一滴の血が鼻筋を通りながら床に落ちた。母は泣きながら膝から崩れ落ちその場座り込みながらも
「もうやめて!!!」
と必死に兄にすがり、私も羽交い締めのように止めていたが覚悟を決めた殺意をしっかりと持った男のパワーを恐ろしく強く警察が来るまでの10分間衰えることなく雄叫びを上げていた次男を抑えるのは永遠にも感じた。

警察からの事情聴取はあまりよく覚えていない、
カツ丼とか出ないんだなと朧げながら思っていた事と、警察署から出ると蝉が五月蝿くてその日は記録的な猛暑日だったとは覚えている。
家に帰った途端、玄関で倒れ込むように寝た。
母は心労からか仕事を3日休んでいた。
私も休みたかったが学校では昇級試験を控え、
仕事はお盆前で繁忙期を迎えていて担当の方からの指名もあったため休むことはできなかった。
なんとか試験とお盆前の繁忙期乗り越えたが私はその次の出勤日を無断欠勤した。

無断欠勤した日もいつも通り。新宿行き10時27分発、10時51分着の電車に揺られ11時に始業の予定だった。
しかし気づいたら、新宿バスタの待合室に座っていた。時刻は深夜1時を迎えている。
状況を整理するのには時間がかかったが、改札を抜けてたから完全にブラックアウトしている。
約13時間の記憶が全くない。携帯の電源は切られていておそらく無意識で自分が切っていたのだった。
急いで上司に連絡し謝罪の電話をかけて普通だったら罵声を浴びるだろうが只々心配してくれた。
その時に厳しい言葉をもらっていたらどうなっていただろう。
母からも連絡が入っていた。
一度も欠勤したことない私を心配して会社が連絡していたらしい。
母からは、
「心配させないでくれ」
と一言かけられたが確かにその通り、子供のうち3人が問題を起こしている。
その通りではあるが申し訳ない「心配させてはいけない」というプレッシャーに21歳を迎えている成人男性にも関わらずその時は耐えられなかった。

新店舗開業に向けての責任者になり、休日も朝早く起きてボストンバックを抱え舌打ちをされながら満員電車に揺られる。その時に完全に頭がおかしくなっていたと思う。

そんな日々が続くと今までうまくやってきた自分と今のできていない自分とのギャップに傷つくことが増えていき、
自動思考で負のループが頭に展開される。
今まではなんとも思っていなかった、道端の小石位の悩みに何度もつまづき深みにハマり、できていたこともできず、呼吸も吸って吐くを意識しないと息もできない。飯も喉を通らない。生きるためのエネルギー摂取をしている自分に吐き気を覚える、体重は42キロになっていた。
人の視線が異常に気になる。目線は足元しか見れない。
家に帰ることもできず、歌舞伎町近辺のネットカフェを常駐にしていた。
今まで下に見ていたメンヘラと総称される人たちの生き方を、情けなく滑稽で惨めだと思っていたが
しっかりと生きている姿を見て涙が止まらなくなった。
訳も知らずバカにしていた自分を恥じた。陳謝したいと思う。

そんな状況でも心から楽しい、嬉しいと思えることもある。親しい友人だったり、信頼している人に、その人たちに会うことで、その人達と関係性を築いていた今までの自分に感謝することができた。
その時に悩みを打ち上げればいいじゃん!って意見もあると思うが、悩みを打ち明け負の感情を共有することを、元来人に弱みをみせたくないと思ってしまう性格である私はできなかった。

自分が異常な時は異常な時がいつも通りの正常になっていて、判断がおかしくなっていることに気付かない。
資格試験の勉強と仕事をどっちも休むにはどうにかして手足を折るしかないなと思っていて、ひどい時は電車に轢かれてやろうかな、雑居ビルの4階にある職場のベランダから飛び降りてやろうかなと本気でも思っていた。
死ねば私がどれだけ傷ついていたか分かるだろうと心から思っていた。

朝を迎えるまで寝れず、2.3時間の睡眠が続き、全てのものが意味ありげに見え、負の感情が取り巻く夜はすごく長かった。
負の自動思考を止めてくれたのは深夜ラジオであった。
自己否定する時間が肩の力を抜ける唯一の時間になった。おぎやはぎ、バナナマン、ハライチなど芸人さんのラジオ

特にオードリーのラジオは夢中になって聞いていた、
昔のラジオを聴きあさり、放送初回から全部聞いた。くだらないただの馬鹿話も本人が言いづらいであろう部分の吐露をうけ、特に若林さんの言葉に笑えた、共感したあの瞬間がなければ死を選んでいたんではないかと思う。

自分だけが辛いわけではなく、悩みの種類が違く悩み不幸を抱えながらもそれでもみんな生きている。
そんなのは嘘だと思っていたが、誰しも決して強くはなくそれでも生きているのかもしれないなとも思うことができた。

本、音楽、ラジオ、言葉に助けられた。
生きていると心ないニュースや出来事、言葉が投げかけられる。それでも自分を守れるようにお守りのように自分の胸に大事な言葉を潜め、傷つくたびに反芻しては自分を取り戻す。

傷つきながら、吐きながらも前に進み、結果は出せた。
本当に悩んでいる時は、話せなかったりする悩みも昔は口にできなかったが今は話せるし、笑い話に出来ればいいなと思っている。

ここまで取り止めもない弱者の言い訳を読んでくれた人たちへ、何かアドバイスや励ましになる言葉を送りたいのだが、キツくなったら休め、できれば逃げろとしか言えない。
だから、一番支えになった言葉を引用し結びとしたいと思う。

「大丈夫と言うことから大丈夫は始まるのだ。」



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