生い立ち①

1993年に、栃木県でオギャアと生まれました。ひるねの子どもの頃はどんなだったかというと。

私が生まれたところは山に囲まれた田舎オブ田舎で、私は緑と動物に囲まれてのびのび育ったのです。小学校は町に2つしかなく、私の通っていた方は人数が少なすぎて、5年生の時に閉校してしまうほど。全校生徒7人だったかなあ。。。中学校は1つ。みんなほぼ強制的にそこに通うわけ。高校に至っては…私が高校生になる前には無くなりました。みんな必ず町外の高校に行かねばならなくなりました。とにかく子供が少ないんです。いわゆる限界集落?に近いのかな。
で、そんな大自然の中でシカやサルや轢かれたタヌキの死骸に囲まれていた私がADHDと診断されたのは、2019年の春ですから、子供の頃はまだADHDなんて障害名は全然知らなかったわけです。でも、今思えば、完全に兆候はありました。
①片付け・整理整頓ができない。
→小学校の頃。私は他の子たちより少し成長が早かった。ついでに性徴も早かった。頭も良かった。ただ、整理整頓が大の苦手でした。小学校って、お道具箱があるじゃないですか。いつも必ずぐちゃぐちゃ。プリントもしわくちゃ。あ!一番奥で大事なプリントがハリセンみたいになってた!一旦キレイに配置し直すけど、1日ももたずに元の状態。ロッカーもです。ファイルや資料集や体育着やピアニカやリコーダーや給食着がごちゃごちゃ所狭しとひしめき合っていました。一度友達に、「ひるねの机の中っていつも汚いよねー。片付けしなよー」と言われました。母もそれを聞いていました。で、嘆いていました。
というのも、家でももちろんお片付けできない子でした。母が家を掃除して、キレイな室内を、1週間足らずで汚くしてしまうのです。部屋を汚くするテクニックはプロ並みです。それで母はもちろん怒るし、でも治らないから、がっかりしてしまうのです。こんな子でごめんね…😭
ちなみに、この件に関しては、―後述するつもりですが―ADHDと診断された時に、母はそれはそれは深く理解してくれ、そういう障害とは知らず、頭ごなしに怒ってごめんね、と謝ってくれたのです。私は思わず泣いてしまいました。わかってくれてありがとう。
これも詳しく後述しますが、社会人になった今でも片付けられないです。自分の部屋はもとより(ゴミ屋敷住人の気持ちが分かってきた)、会社のデスク周りが本当に汚い。

ADHDとは、多動性・衝動性・注意力欠如という、大枠で3つの症状が見られるといいますよね。私は、そこまで多動と衝動はなかったかな、と思います。どちらかといえば落ち着いていたし、集中力も並外れていたと思います。ただ………

②注意力の欠如〜あぶねぇよ〜
→もう、インフォメーションセンターに問い合わせするの慣れた。そうすれば必ず返って来る。日本スゴイ。届けてくれた人ありがとう!マジ神
そう、落し物・忘れ物は日常茶飯事でした。宿題は忘れなかったけど、教科書を忘れたり、はよくありました。遠足では、お小遣いを落としました。母に言うと、怒られるかと思いましたが、「何も買えず我慢したお前が不憫で可哀想」だと泣かれました。今でもそう言われます。
もうほんと、どこかに何かしら忘れるんです。後述しますが、大人になってからも本当にこの辺はひどい。
それから、注意力がないせいか、子供の頃からよく手足をそこかしこにぶつけてアザがたくさんできました。「見えていない」んです。そこにそれがあると認識できない。視野が極端に狹い。締まり掛けのドアに肩をぶつける、椅子に足をぶつける、何度も同じところに手をぶつける。バカか?とにかく、壁やら椅子やらの存在は意識の外。だから気をつけよう、とも思い得ない。自分の世界の内側に無いものには、注意しようがないじゃない!

こんな感じでも、それでも子どもの頃は、「おっちょこちょいな子」でまとめられちゃいませんか?

私は他ならぬ自分と、母親によって、「人よりおっちょこちょいな子」だとレッテル貼りをして自己完結したんです。仕方ないですよね、当時はADHDだなんて疑う余地もなかったんだもの。だから発見が遅れたの。大人になって本当に苦しくなるまで、気づけなかった。今、ADHDという診断名をもらって、とても嬉しいんです。ほっとしています。原因が分かったから。自分がわけも無くオカシイヤツじゃなかったから。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました☺️続きは別の記事で👋😁

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