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海と

ひさしぶりに海に来た。

病める時も健やかなる時も、なんてことない時も、導かれるように海を求める。

バイトが休みなので4時過ぎのまだ明るい時間に逗子海岸まできた。逗子は何となく遠いイメージがあるのだが、電車に乗ればすぐに着く。それも最近気がついた。

洗濯を二回回した、晴天だった。

いつもと違うホームから京急線に乗る。
新逗子駅に着くと妙に安心した。

駅から浜までの道のりがわたしはすきだ。天国を求めて夢心地で歩く感じも、海の近くの生活のにおいも、涼しげな裏道も全部含めて海がすきな理由だ。

高校生の頃、熱海の海まで電車ですぐに行ける高校に通っていたわたしは、1学期の終業式が終わるとすぐに友達と綺麗な丸のすいかをスーパーで買い、くくられた紐を交代で持ちながらへらへらと電車に揺られて海へと向かった。

夏服の制服をまとい道順などわからず特に調べもせず、海の匂いと勘をたよりに坂道を抜け、燦々と照る太陽に文句をいい、日陰に隠れながら海に到着した。

早速着替えて熱のある砂浜を踊り歩いて青い海に身を放った。海に浮かぶ小さな島から青くチラチラと光る光の中へ飛び込んだり、子供が見ているのを横目に適当に調達した棒ですいかわりをしたり、風を感じながら浜辺のコンビニで買ったカップ麺をすすったりした。

すっかり気持ちの良くなったわたしたちは、帰るついでに駅までの道の階段でグリコをした。夕方の空気がかなしくて心地よくわたしたちをつつんでいた。

あの頃のわたしに必要だったものってなんだったんだろう。本当はなにもなくてもよかったんじゃないかな。いつもいつも、何かを探してあれこれ頭を悩ませていたけど、友達とわらって、夕暮れに感動していた時間ほど、あの時のわたしに必要なものなんてなかったと思う。でもその時は、そういう幸せに気づけないんだと思った。

高校生とはいえど、悩みはあった。人には言えないことや自分の中でも整理のつかないこと、ひとつのことで頭がいっぱいになったり、一体何に思い悩まされているのかすらわからなくなることもあった。将来のことも今のことも自分にはうまく対応することができていなかった。

いつもと変わらない今日を過ごした日、気づけば学校が終わり、帰ろうとすると心がからっぽになったわたしは半ば無意識に友達に「海に行く」と言葉をこぼした。きっと秋がこれから冬になろうとしている日のことだった。
言葉と同時にわたしの目からは涙が流れた。何かが壊れたように、あたたかい粒が頬を伝った。

なぜだか自分でもわからなかった。今自分がどんな顔をしているのか自分でもわからなかった、ただ海を求めていた。

本当にひとりで海にいくつもりだった。根拠のない強い気持ちがあった。友達は驚いた様子で、でもわたしの表情や言葉、一つ一つじっと逃さないようにわたしの腕を強く握った。わたしの口からは何も言葉が出ない。それでも、「言えないことがきっとあるんでしょう」と柔らかい目をしてただただわたしの涙がおさまるのを待ってくれた。そして反対の電車に乗って帰るはずの友達はわたしの地元まで一緒に帰ってくれた。一緒にいつものようにラーメン屋でラーメンを食べた、泣いた後の子供のような気持ちだった。外はすっかり暗くなっていた。

あのとき友達が海に連れて行ってくれなかったこと、一緒にいてくれたこと、ただずっと愛を持ってわたしをみていてくれたこと、それが全部大切に大切に今でもわたしの中に残っている。

海に行くたびに思い出す、友達のこと。




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