思考と感情

「思考は感情と折り合いをつけるための行為だ。思考を放棄したということは、折り合いをつけるのを辞めたということだろう」
「よくないことでしょうか?」
「さぁ? 君の好きにしたらいい。それなりの理由があったんだろう?」
「…あった…んでしょうか」
「無意識ということだってあるかもしれない。人間は案外高性能だが、それをすべて認識できるほど上手に作られてもいないからね」
「折り合いのつかない感情はどうなりますか」
「どうにもならないよ。折り合いをつけていないんだから」
「…」
「むしろ折り合いをつけている方が感情をどうにかしている。前触れもなく生まれた感情を咀嚼して分析して名前をつけて、考える。ときには都合のいいものへとすり替える」
「すり替える?」
「あぁ。憎しみを憐憫に。嫌悪を無関心に。そうやって折り合いをつけるのさ。人の中で生きるために」
「違う感情にするんですか?」
「違う感情として認識すると言った方が正しい。これは私の見解だが、大抵の人間はそれができることを『大人になる』というらしい」
「先生はそう思わないんですか?」
「思っているけれど、どうかな。そう思ってしまう自分が悲しいような気もするね。あらためてみると」
「悲しい…ですか」
「そう。感情をすり替えることで認められる。感情をすり替えることが暗黙のうちに強要されている」
「…」
「…話が逸れてしまったが、君は考えることをやめたと言ったね」
「はい」
「その割には私を訪ねて来ているし、会ったときから浮かない顔だ」
「…そう、ですね」
「思考を放棄したことについてまた思考を巡らせる。つまり君はどうしたって、もう立派な大人ということだ。…残念ながら」