私の人生④進学後~ギリギリの健常者~

  何とか希望の大学には進めました。でも既に私のメンタルはボロボロでした。1回生の時から、寝つきが悪くなったり本が読めなくなってきたりしていました。今思うと私がぶっ壊れる前兆だったんだと思います。病としてだと、初診は2017年の11月ですが、進学戦争中も天井眺めてたり、食欲がない時がありました。抑うつ状態だった可能性が高いな、と思いました。心配させまいと食事は取っていましたが。
  私が「双極性感情障害」になったのは、何とか家から出てD大に進学したから、だと思います。これだけ苦労したからこそ、外に出た時は元気になったのだと思います。でも、本当はもう壊れていたのでしょう。家具を選ぶ時「お金ないんでしょ何でもいいよ」みたいな感じだった記憶があります。

  アルバイトはちょっと始めるのが遅かったです。実は塾講のバイト2回落ちてます笑。1回生の10月から、チェーンのカフェでバイトをしました。しかしながら、やはり、上手く行きませんでした。ホールもキッチンもやる所でした。
  接客は何とか出来ていましたがとにかくモノを扱うのが苦手で苦手で。キッチンなんて無理でした。仕事の優先順位も分からず、よく叱られていました。予想通りではありました。勉強は得意でも、あぁ、私はポンコツだ、とずっと思っていましたから。この頃から不眠はどんどん悪化していきました。なら働いてしまえ、と。そこから、他のバイト先を見つけようと、私自身を分析して選びました。
・急いでる人が来ない所
・接客は向いているから接客メイン
・モノをテキパキ扱う機会が少ない所
・業務内容の種類が少なそうな所
1番目は、「急いでる人」ってイライラする人が多いですよね。なので、マルチタスクがどう頑張っても無理!な私はコンビニやファストフードは弾きました。教育系は上記の通り。でも家庭教師やれば良かったかなぁ、と思う時はあります。
  結局、京都市内に4店舗程あるこじんまりした喫茶店に決めました。店内も広くなく、ホールと出前(歓楽街にあったので)をやりこなせたら良かったし、当時は扱うお金が10円単位までだったのです。なのでやりやすかったです。あと、支払い方法が「現金のみ」だったのも有難い点でした。4ヶ月くらい、チェーンの所と掛け持ちしていました。後者が働きやすかったので、チェーンは辞めました。接客のスキルはバイトの中では一番出来てると先輩に言われたこともあります。出前先はバーやキャバクラ、お茶屋さん、ラウンジ、風俗店など。そこで働いてるわけではないのに足を踏み入れることが可能だったので、社会見学してる気分でした。出前を自分からよく希望していたので、キャッチのお兄さんとかとも仲良くなれました。暇な時は常連さんとお話していました。ちなみにD大生と言うと、「へぇ〜!女子、の方じゃなく?あ、そうなんだ〜頑張ったんだね!」という評価を頂いてました。
  ちなみに、自傷癖の再発はチェーンでバイトをしていた時に起こりました。

  勿論、私は学業をやりたくて大学に進んだので、バイト「ばかり」している訳ではなく、ちゃんと単位も取っていました。「学生」として生きてました。一見つまらなさそうな授業も、授業に出るうちに楽しめるようになり、とても楽しかったです。自分の知的好奇心は相当なものだな、と安心しました。サークルには入りませんでしたが、友達はちゃんと出来たし、勉強は楽しいし趣味の面でも宝塚観に行くのも楽しんでいました。

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  当時の試験期間中のスケジュールです。
赤はテストやレポート
ピンクがアルバイト
紫が観劇です。
  なぜこんなに私はバイトを詰め続けていたのでしょうか?掛け持ち時代に喫茶店ラスト(2時まで)からのカフェのオープン(9時)したりなんて、無茶なことを。それは、遡って、進学戦争の時、父に「大学はD大でいいから卒業したら帰ってこい」と言われたことが原因です。
  私ははなから実家に、関東に帰る気はありませんでした。私がどこで住むかを決めるのは私に選択権があります。ですが、私はあまりに、優しすぎました。そして自分の首を絞めました。
  いくら理不尽なことを言われたからと言っても毎月仕送りを送ってくれていた訳でしたので、理不尽な「約束」でも「約束」は「約束」だと思っていたので、卒業後帰らないと言えば父からしたら、「裏切り」だと思うのは当然です。苦労して仕事して得たお金を送ってくれているのに、「約束」を破るのであれば、「あーごめん関西で暮らすわぁ」ではいけないと、思ってしまったのです。甘えることが出来なかったんです。良心の呵責に苛まれていました。それならば、自活して、仕送りを貯めて、卒業時に仕送り分を返せば問題ないだろう、と。自由になってもいいだろう、と。(卒業したら死ぬつもりだったけど)そして喫茶店が働きやすかったのもあり、授業に出席し続けながら週5で8時間ほど働いていました。大丈夫。大学も楽しい。バイト先もアットホームな感じがしてとても働きやすい。単位も意図的に捨てた2つ以外は全部取れていました。
 (病気になってから単位を取れたことはありませんが現時点で、124単位中64単位取得しています)

  だから、大丈夫。若いんだし、大丈夫。そう思っていました。


  ちなみに今の彼とはそのバイト先で出会いました。皆さんとてもいい方ばかりで、ミスをしても、謝って次どうしたらいいかアドバイスをくれて、順番が分からなければ直ぐに聞いて教えてもらうことが出来ました。勿論自分の頭で考えて行動していましたが、「聞きやすさ」って大事ですよね。
  が、しかしその「社会で役に立たない動けない私でもバイトとはいえちゃんと働けてる」という実感を得てしまったことにより、父との「約束」も頭から離れず、ワーカホリックに陥りました。
  
 
趣味も謳歌していきたかったので、年50回ほど劇場に足を運んでいました。自分のバイト代で。
  約1年間、躁状態で過ごしてしまったのだと、今は考えています。

  でも同期から「当時を振り返るとほんとに疲れてるんだなと思ってた」と言われました。もうとっくのとうに、私の体には異常が出ていました。まず不眠。そして、突発性難聴。それでも私は体のサインを無視し続けてしまいました。

  2回生の秋学期初日に、私は卵巣嚢腫で入院しました。幸い手術の必要もなく、第一回目の授業が受けられなかったのは悔しいけど、またいつも通りに戻れると思っていました。

  それなのに…退院したら、どんどん動けなくなっていきました。気がついたら寝ることも食べることも出来ずなんの欲もなく、天井を見てるだけの人になってしまいました。

  ここから、私の闘病生活が始まることとなったのです。そしてそれは、過酷なものです。

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