私の人生①ー家庭編 小学校入学から中学校卒業まで

  私の両親がなぜ結婚したのか、私には今でも理解が出来ません。そんなこと気にしないよ?という方を私は心底羨ましく思います。

  母は教師一家です。地元の国立に入って、教育学部に在籍していました。今はもう、その大学に教育学部、ないんですけどね…。30年以上前のことですから、国立だろうが変化があるのは当たり前と言えますが。本当は中学英語の教員免許が欲しかったのですが、それを優先して学べる所には、学力が足りなかったそうです。そのため、特別支援学級の免許を取りながら、中学英語の免許も取得しました。とても頑張ってたんだなーと思います。
  父は撮り鉄。仕事は会社員。高校から私立に通い、鉄道関係の仕事に就くつもりでした。しかし、当時の大人の都合ってもので叶わず、二浪して私立大の夜間部を卒業しました。
  父は東、母は西の人間です。出会いの詳細は知りません。文通してたらしいです。

  衣食住には全く困らない生活で恵まれていたと思います。しかし、家庭も社会の1つ、と当時から思っていた私は、この家のアンバランスさにストレスを抱えていました。

  母はAC(アダルトチルドレン)という言葉を知っています。学校編では、いじめられていたことをメインで書きましたし実際の学校生活がそうだったので。
  なーんで自傷に気付いておいて何の提案もしてくれなかったのでしょう。そして父は気分屋で、怒ると手が付けられない人です。暴力は振るいませんし、怒るにしてもその指摘自体は正しい場合が多いです。それでも、怒鳴るほどのことじゃないでしょ…そこまで追い詰めてどうするの?と思うし、「機嫌」が収まるまで正論で人をぶちのめすのがお得意なのです。

  昔の私は、食べるのが遅かったのです。給食についていけないレベル、と言うほどでもなかったと思うんですが…。「食事の遅い奴に仕事のできる人間はいない」と言われては「〇回噛んだだろ飲み込め」と言われていました。
  私が考えても上手く動けないとこれまたこっぴどく怒られました。23歳の現在「この人叱ってないじゃん怒ってるだけじゃん」と思います。よく言われたのは「何でこんなことをしたんだ」です。何でと言われましても…。「何で出来ないんだ」いやだから、何でと言われましても……。
  さらに自分の友達もかなりディスってる。何してんの?母には発達障害とアスペを少しでも疑って欲しかったです。経歴を考えると。「お前考えて動けよ何のほほんとしてるんだ」と父から言われた所で、私の頭は既にフル回転です。行動に移せなかったから、結果が全てな社会人として、色々言ったんだと思います。
  夫婦喧嘩は当時はあまりなかったと思います。しかし、制限が多すぎました。
・自分の価値観に合わない者を下に見る
・目が悪くなるから夜の読書、お絵描き、宿題も禁止
・交友関係によく踏み込まれる
など。「息苦しい」という言葉がピッタリです。我が家を一言で表すなら「抑圧」です。
 母は母親として、人間としては悪い人ではありませんが、逃げ癖があります。それについては別の話の時に。
  旅行に連れて行って貰ったとか、いい思い出も沢山ありますが、いつ父の機嫌が悪くなるか分からないので、同じリビングにいるだけでずっと緊張していたし、父と話す時は「出された言葉に対してどう返すのが適切か」をテストのように解答用紙に書き込む感覚で話していました。
  父はずっと私の成績に関してはあまり言及することはなく、いじめのことも知っていたらしいですが、そこにも特に反応は示しませんでした。
  ただ、いつ大嵐になるか分からん状態の人間性を持つ父と同じ空間にいるのは苦痛でした。何となくピリピリした空気を感じずにはいられませんでした。天真爛漫に育った、と私を捉える人もいます。確かによく笑う子どもでした。それでも、「両親の価値観の範囲内」で自由気ままに過ごしていただけでした。これが後に、私の精神を蝕むこととなります。
  私は「子役」でした。学校編で書いた、卒アル写真を撮られた時に「子役のよう」と褒められたのは、実際私が精神的に変に早熟で子どもらしさも出しながらしっかりした子ではないといけないんだな、とずっと思い続けて言葉を発したり動いたりしてきたからだと思っています。
  フラバ起こしそうなので1度控えることとしましょう。とにかくそんな形で育ててくれたはいいのですが、高校生活がほぼ終わる時から…私は呪われたかのような人生を送ることとなります。大袈裟な気もしますが、ここまでのことになるとは、全く思っていませんでした。詳しいことはまた後ほど。
   そして、この時…恐らく小4くらいから、「家を私がしまうんだな」と意識し始めたり、中学に入ると、「惜しまれるうちに死にたい」と思うようになったり。逆に、私という人間がいつどのように死んでいくのかが怖くて、夜中飛び起きては、母と妹を起こさないよう、声にならない叫び声をあげたりもしていました。タナトフォビア(死恐怖症)という言葉を知ったのは暫く後のことですが、「将来的な希死念慮」が私の頭に浮かんでから私は命と意思を持って生活する中で、それを自分の手で終わらせたいと思うと同時に、それが終わりを迎える瞬間を恐れるようにもなったのです。

 次は高校編ですかね。読んでくれた皆さん、ありがとうございます。②に続きます。


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