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【上座部仏教】五位七十五法 心法

説一切有部の教説の続きになります。

○有部の説く自性(スヴァバーヴァ)
説一切有部の正統派であるヴァスミトラとサンガバドラ(衆賢)が強調していることは、実在するもの(法体)はそれに特有の本体と作用を持っているということです。言い換えると、実在するもの(法体)は二つ以上の本体と作用を持ち得ないということです。

○世親の『倶舎論』における五位七十五法の法体
実在するもの(自性を有するもの)とは、世親の倶舎論においてまず、以下の二種類に大分類できます。

・無為法
「作用の刹那滅論」の対象とならない、恒常不変の法体です。しかし、後で説明する「能作因」とはなり得るので、完全に因果関係を離れているわけではありません。

・有為法
「作用の刹那滅論」の対象であり、未来領域(未作用状態)から現在領域(作用中状態)へ生起→持続→変化→現在領域(作用中状態)から過去領域(作用済状態)へ消滅という四相を刹那の瞬間に行う法体です。


○五位七十五法

▽五位七十五法の有為法(心法)
心法同士は同時に現在へ生起することが出来ず、心法と心所法は必ず同時に生起・消滅し、対象を共有します。

①眼識(前五識の一つ):
現在領域の眼根と一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、現在領域の色境情報のみを対象とした視覚的認知です。

②耳識(前五識の一つ):
現在領域の耳根と一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、現在領域の声境情報のみを対象とした聴覚的認知です。

③鼻識(前五識の一つ):
現在領域の鼻根と一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、現在領域の香境情報のみを対象とした嗅覚的認知です。

④舌識(前五識の一つ):
現在領域の舌根と一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、現在領域の味境情報のみを対象とした味覚的認知です。

⑤身識(前五識の一つ):
現在領域の身根と一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、現在領域の触境情報のみを対象とした触覚・体性感覚的認知です。

⑥意識
一瞬前に過去領域に消滅した心法を依拠して、現在領域へ生起し、未来・現在・過去の領域全ての法体を対象とした思考・判断・意思です。

⑦意界
一瞬間前に過去領域に消滅した心法であり、上記の六識が現在領域へ生起する際の縁となるため、意界として別居に立てられます。

一つの本体が一つ以上の作用を発揮することはないので、例えば、眼識は眼根を照明(理解)する作用だけを、眼根は色境を見る作用だけを、対象である色境は形象を与える作用だけを持っています。ちなみに、眼根などは「色法」に分類されます。次回の記事で触れたいと思います。

○有部の本体とは思惟・言葉の対象?
我々現代人の考え方からすれば、過去において見たもの、未来において見るであろうものを意識することはそれぞれ、記憶ないし・推理の話になります。しかし、有部は過去の記憶を想起するといった場合、意識の法体が過去領域の法体を対象として認識したとし、未来の出来事を推理するといった場合は意識の法体が未来領域の法体を対象として認識したとします。記憶の対象や推測の対象まで、外界に存在するとします。ここまで来ると、有部のいう本体(法体の本体)とは思惟の対象としてのもの、言い換えれば、言葉の対象としての物のことであることが分かります。同時期に活躍したヴァイシェーシカ学派の思想との類似点が見られるようです。

○梶山雄一氏の考察
これに関し、仏教学者の梶山雄一氏は次のように考察しています。

大切なことは有部が意識の対象は常に認識態(認識されている状態)にあると言っていることである。五感の場合には、知覚を基準として認識態と非認識態とを分けるけれども、意識つまり思惟の対象であるものはそれが思惟されているか否かで認識態と非認識態とを分ける。ここで思惟の対象というのは、五感官の対象である物質的存在以外のもの、つまり心・心作用・心に伴わないもの・無制約的なもの及び特殊な物質的存在である無表色である。しかし、五感官の対象も考えることができないわけではない。有部は二種類の時間を考えていることは確かである。それは知覚(直観)の時間と思惟の時間である。あるいは、現象の時間と本体の時間と言ってもよいであろう。
三時にわたって恒常な本体と刹那滅的なその現象とは同一の時間においては調和することができない。有部の本体とは思惟の対象・言葉の対象として現象の世界と違った世界にあると言わねばならない。それは知覚の時間ではなく、思惟の時間である。経量部・中観派・唯識派は直観だけを事実の世界として認め、思惟の世界は人間の構想(虚構)としてのみ認める。有部は思惟の世界を本体とし、事実の世界を現象と考えているだけのことである。

刹那滅である法体の作用、すなわち我々が経験する「現象の時間・世界」は知覚の時間・世界であり、恒常な法体の「本体における時間・世界」は思惟や言葉の時間・世界であるということです。我々は現象の時間・世界を真実とし、思惟の世界は虚構に過ぎないと考えますが、有部は逆に考えているということになります。