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【大乗仏教】唯識派 無漏の種子

有形象唯識派の護法(ダルマパーラ)は「心の本性は清浄であって、煩悩はただ偶発的に心に付着した外的要素にすぎないという説」を受け入れることを拒みました。護法は、心の本性が空性・真如であるならば、それは恒常不変であるため、瞬間ごとに生ずる(刹那滅の)心の原因とはなりえないと考えたのです。また、それ(恒常な心の本性=空性・真如)が心そのものであるとすれば、心は基体的同一性を保ちつつ瞬間ごとにその様相を変えるということになるため、サーンキヤ哲学の変化の概念をあてはめることになるのではないかと彼は主張します。

筆者は、初期大乗仏教における「空性」はサーンキヤ哲学における「自性(プラクリティ)」、そして如来蔵派や無形象唯識派が説く空性・真如、即ち光り輝く心はサーンキヤ哲学における「自己(プルシャ)」は本質的には同じではないかと考えています(あくまで勝手な私見です)。実は同じものを異なる視点から見ていたという事例はよくあることであり、サーンキヤ哲学の概念と重なるので、その概念は誤りであるという理屈はかなり偏っていますね。しかし、初期大乗仏教の頃から本体を想定する哲学思想は下位という考え方が根強くありましたので、このような意見は護法(ダルマパーラ)に限られた話ではないのですが。

○無漏の種子説
「無漏の種子」(非煩悩性の種子)は、人間にとって生得的にあるものか、教えを聞くことによって人間存在の根底に新たに発生するのかという問題を巡って唯識派の学者の間に見解の相違があったことが『成唯識論』に紹介されています。護月は「有漏の種子」も「無漏の種子」も生得的なもので、それが経験によって成就するものだと主張しています。これに対して、難陀・勝軍らは全ての種子は認識・経験の余力によって新たに発生するという見解をとります。ただし、唯識思想において経験は無始の時から積み重ねられているので、種子は無限の過去から存在しているということになりますが。

この両説を紹介した後、護法(ダルマパーラ)自身は人間に本来具わっている種子と、新たに発生する種子とがあると述べます。他の記事で既にお話したように、初期の唯識派の論書によると、転識(七識)と阿頼耶識とは交互に因果の関係にあり、種子が常に新たに発生するという考え方を示しています。しかし、仮に種子の全てが新たに発生するならば、無漏の種子は原因なしに発生することになります。理由は阿頼耶識を根底とする人間にとって、全ての認識・経験は有漏となるからです。従って、無漏の種子は人間に本来具わっていると考えなければならないことになります。教えを聞き、瑜伽行を実修することによって、この生得的な無漏の種子が成就させられるということです。ただし、人間に本来具わっているその無漏の種子は微細であって、それがあると理解しがたいので、教えを聞くことによって無漏の種子が生ずるという形に説かれる、というのが護法(ダルマパーラ)の見解です。

ここまでの話では、護法(ダルマパーラ)の「生得的な無漏の種子」と無形象唯識派の「光り輝く心」に本質的な相違が見出せないような気もしますが、護法(ダルマパーラ)は無漏の種子があらゆる人間に生得的に具わっていると考えないため、そこが本質的な相違と言えます。逆に、「光り輝く心」「如来蔵」は全ての人間が本来持っている心の本性として説明されます。

護法(ダルマパーラ)は、仏と同じく真理を覚った者となるか、声聞・独覚となるか、あるいは全く涅槃することができないか、という衆生における差別は無漏の種子の有無によると説明しています。法相宗における「五姓各別論」の原点となる思想と言えます。

○正聞熏習
無著(アサンガ)の『摂大乗論』においては、教えの聴聞は煩悩の種子即ち、有漏の種子とは質的に異なった無漏の種子を阿頼耶識の中に置くとされます。無漏の種子は、真理の世界(法界)から流れ出た聴聞の余習(正聞熏習)であるといわれます。煩悩に対抗するものとしての無漏の種子は阿頼耶識の中に有漏の種子と共存し、瑜伽行はこの無漏の種子を成熟させます。

○無漏の種子≠如来蔵?
阿頼耶識は種子の拠り所である限り、阿頼耶識(住居)なのであって、煩悩の種子がなくなってしまうと、それに対抗する無漏の、煩悩のない種子はそのまま法界、つまり最高実在ということになります。無漏の種子というのは、あらゆるところに遍満している最高実在が衆生の心に及んだもので、煩悩の種子が全滅すれば、無漏の種子は最高実在そのものですから、阿頼耶識は消滅(転依・転換)します。

『成唯識論』でも無漏の種子を衆生に及んでいる真如と考えずに、生得的に衆生に内在しているものと理解されており、各人に内在している種子はそれぞれ異なっていて、その種子の差別に応じて人は仏となったり、声聞・縁覚となったり、あるいは永遠に涅槃することができなかったりすると説かれます。無漏の種子がそのまま真如・法界であるとする、即ち空の思想と連関する面は『成唯識論』では希薄になります。