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【大乗仏教】如来蔵思想 光り輝く心

「華厳経」以前の初期大乗仏教の経典においても、「如来は法を身体とする」という教えが登場しています。いくつか例を示します。

金剛般若経より
釈尊:
「形によって私を見、声によって私を求める者は間違った努力に耽る者。かの人達は私を見ないのだ。目覚めた人々は法によって見られるべきだ。諸々の師達は法を身とする者だから。そして、法の本質は知られない。知ろうとしても、知られない。」

八千頌般若経より
釈尊:
「『仏陀世尊達は真理を身体とするもの(法身)達である。そして、比丘達よ、決してこの物理的に存在する身体を仏陀の身体と考えてはならない。比丘達よ、私のことを法身によって完成されているのだと見なさい。』と。この如来の身体は智慧の完成という真実の究極から現れたものと見なければなりません。」

維摩経より
「友よ、如来の身とは法身のことであり、智から生じる。如来身は功徳から生じ、布施から生じる。また、戒を保つことから生じ、三昧から生じ、智慧から生じ、解脱から生じ、解脱を自覚する智から生じる。また、慈しみ(慈)と同情(悲)と同慶(喜)と不偏の心(捨)とから生じる。~あらゆるパーラミター(波羅蜜多)から生じ、六種の神通や三種の智(三明)から生じる。」

これらの思想が「華厳経」における「如来法身の偏在」という思想へ繋がったものと思われます。詳細は前回の記事をご参照ください。

如来法身の一部は我々衆生にも仏性(如来蔵)宿るとしますが、その我々に宿る仏性は「浄く輝く心」「光り輝く心」「自性清浄心」等と表現されます。煩悩に塗れた我々の心ですが、本来清浄であるという思想は、原始仏教経典(パーリ仏典)の頃から登場しています。

パーリ仏典 増支部より
釈尊:
「比丘達よ、この心は光り輝くものである。しかし、それは偶然的な煩悩によって汚されている。凡人はこの心のことを教えとして聞かず、真実に理解しない。それ故に、教えを聞かない凡人には心の修習がないと私は言うのである。比丘達よ、この心は光り輝くものである。そして、それは偶発的な煩悩から離脱している。貴い仏弟子はこの心のことを教え聞き、真実に理解する。それ故に教えを聞く仏弟子には心の修習があると私は言うのである。」

そして、「八千頌般若経」についても僅かに登場します。

八千偈頌般若経より
スブーティ:
「また、世尊よ、智慧の完成への道を追求し、智慧の完成を修習する菩薩大士は、教えられているときに、彼がその覚りに志向する心(菩提心)におごらない、というような仕方で学ばねばなりません。何故かというと、心というものは心ではありません。心の本性は浄く輝いているのです。」
シャーリプトラ:
「一体、スブーティ長老よ、心でない心というその心は存在するのですか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、一体心でない心というその無心性に、存在性とか非存在性とかがあったり、認識されたりするのですか。」
シャーリプトラ:
「そうではありません。スブーティ長老よ。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、その無心性に存在性も非存在性もありもしないし、認識されもしないならば、シャーリプトラ長老(あなた)が『心でない心というその心は存在するのですか。』と質問されたことは、果たしてあなたにとって正しいことでしょうか。」
シャーリプトラ:
「スブーティ長老よ、ではこの無心性とは何でしょうか。」
スブーティ:
「シャーリプトラ長老よ、無心性とは変化しないこと、妄想(分別)を離れていることなのです。」

それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。

如実に修行する者、彼には修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。それは何故であるか。文殊菩薩(マンジュシリー)よ、心は本来、光り輝いているからである。それはあらゆる一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。本性として光り輝いているということは、汚染するもの(雑染)がないということである。汚染するものがないということは、そこに煩悩を断つべき対治者も必要でないということである。それは何故であるか。文殊菩薩よ、それは本性として清浄であり、従ってそれ自身清浄なものはその上浄化する必要がないからである。清浄なるもの、それは無生である。無生なるもの、それは非難されない。非難されないもの、それは欲望を断じたものである。欲望を断じたもの、そこでは全ての根源的執着が消滅している。もしも、全ての愛着が消滅すれば、それが煩悩の不生である。不生なるもの、それが菩提である。菩提なるもの、それは平等性である。平等性なるもの、それはありのままなること(真如)である。
~文殊菩薩よ、菩提は心の本性が光り輝いていることによって、本性として光り輝いている(自性明浄)。何故に光り輝く(明浄)と言われるのか。本性なるもの、それは汚れがなく、虚空と等しく、虚空と同じ本性を持ち、虚空に合し、虚空に似て、本性が極めて明るく輝いているからである。

如来蔵思想と唯識思想(マイトレーヤに帰せられる無形象唯識的思想に限られる)はどちらも「華厳経」の三界一心作の思想の展開ではないかと考えられています。不正確さを恐れずに、かなり雑な言い方をすると、心を真如とするのが如来蔵思想で、心を阿頼耶識とするのが唯識思想です。初期の唯識派の論書、つまりマイトレーヤの名で伝えられている論書には真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されており、阿頼耶識という輪廻的存在の根拠が無であることを覚れば、法界に融け込んで真如そのものとなること、その人の仏性が開顕して人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが明確に説かれています。