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【原始仏教】涅槃(ニルヴァーナ)

釈尊は80歳の年齢で入滅(死亡)したと伝えられています。釈尊は入滅前にも数々の教えを残しています。

釈尊:
「修行僧たちよ、四つの理を覚らず、また通達しなかったから、私もあなた達もこのように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。その四つとはどれどれであるか?{(苦という尊い真理・苦の生起という尊い真理・苦の消滅という尊い真理・苦の消滅に至る道という真理)・(尊い戒律・尊い精神統一・尊い智慧・尊い解脱)}を覚らず、また通達しなかったから、私もあなた達もこのように、この長い時間の間、流転し、輪廻したのである。しかし、今はこの{(苦という尊い真理・苦の生起という尊い真理・苦の消滅という尊い真理・苦の消滅に至る道という真理)・(尊い戒律・尊い精神統一・尊い智慧・尊い解脱)}が覚られ、通達された。生存に対する妄執は既に断たれた。生存に導く妄執は既に滅びてしまった。もはや再び迷いの生存を受けるということがない。」
「戒律と共に修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一と共に修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧と共に修養された心は諸々の汚れ、即ち、欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する。」

釈尊:
「四念処と四正勤と四神足と五根と五力と七覚支と八正道。これらの法(三十七道品)を私は知って説いたが、あなた達はそれを良く保って実践し、実修し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長く続き、久しく存続するように、ということを目指すのであって、そのことは多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々の利益、幸福となるためである。」

これまでの教えが遺言のような形で説かれています。そして、原始仏典では悪魔(マーラ)がまだ未熟だった弟子アーナンダに憑り付き、釈尊の延命を間接的に阻害したと説かれています。

釈尊:
「アーナンダよ、如何なる人であろうとも、四神足を修し、大いに修し、軛を結びつけられた車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、見事に成し遂げた人はもしも望むならば寿命のある限り、この世に留まるであろうし、あるいはそれよりも長い間でも留まることができるであろう。」

こういうわけであったけれども、若き人アーナンダは尊師が幾度となく顕にほのめかされ、顕に明示されたのに、洞察することができなかった。

「人々と神々のために命ある限り、この世に留まって欲しい」という旨を釈尊へ伝える機会をアーナンダは何度も潰してまったようです。それは、アーナンダの心に悪魔(マーラ)が憑りついていたためとされます。アーナンダが気付いて懇願した際には、既に寿命の素因を断ち切った後であり、間に合いませんでした。

悪魔(マーラ):
「尊い方よ、尊師は今ニルヴァーナにお入り下さい。幸いな方(仏陀)は今ニルヴァーナにお入り下さい。今こそ尊師のお亡くなりになる時です。今や尊師の弟子である比丘・比丘尼・在俗信者・在俗信女たちは懸命にして、よく身を整え、事柄を確かに知っていて、学識であり、法を保ち、法に従って行い、正しい実践をなし、適切な行いをなし、自ら知ったこと及び師から教えられたことをもって解脱し、説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、議論の起ったときには道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し行い、ものとして説いています。」

釈尊:
「悪しき者よ、汝は心焦るな。久しからずして修行完成者(仏陀)のニルヴァーナが起こるであろう。今から三カ月過ぎて後に修行完成者は亡くなるであろう。」

この経典が書かれた頃には釈尊の神格化が進んでいたことが分かります。しかし、釈尊は自分が亡くなった後、まだ未熟だったアーナンダがこれからどうなるのかと心配していたのは事実と思われます。そこに悪魔(マーラ)が付け入ったのでしょう。

○釈尊の死期迫る

尊師が鍛冶工の子チュンダの招待食を食べられたとき、激しい病いが起こり、赤い血が迸り出る。死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は正しく念い、よく気を落ち着けて、悩まされることなく、その苦痛を耐えて忍んでいた。

釈尊が何の招待食を食べたのか?については諸説あるようです。毒キノコとする説や火をよく通していなかった肉(仏教では信者の施しであれば肉食を禁じていない)とする説もあります。一口食したあたりで、釈尊はこの料理が毒であることに気付いたため、一緒に招待されていた他の弟子達は助かりました。

釈尊:
「アーナンダよ、鍛冶工の子チュンダの後悔は次のようにして取り除かれるべきです。『友、チュンダよ、如来はあなたの托鉢食を最後に食べて入滅されたのですから、あなたはそのために利得があります。あなたにはそのために得ることが易しいのです。友、チュンダよ、私はそのことを世尊から直接聞き、直接受けました。即ち、これら二つの托鉢食はいずれも等しい果報があり、等しい結果があり、他の托鉢食より遥かに大きな果報があり、遥かに大きな功徳があります。二つとは何か。如来が食べて最上の正しい覚りを完成するスジャーターの托鉢食と、如来が食べて無余依の涅槃界において入滅するチュンダの托鉢食です。鍛冶工の子チュンダ尊者は寿命をもたらす業を積んでいます。』と。」

誤って毒入りの料理を托鉢食として提供してしまった鍛冶工の子チュンダが後から自責の念に潰されないよう、釈尊は上記のように言い残しました。

○自灯明・法灯明

釈尊:
「アーナンダよ、あるいは後にあなた達はこのように思うかも知れない。『教えを説かれた師はましまさぬ、もはや師はおられないのだ。』と。しかし、そのように見なしてはならない。あなた達のために私が説いた教えと私の制した戒律とが、私の死後にあなた達の師となるのである。アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は――。」

頼りにすべきは「自ら=真の自己」と「仏法」ということです。

○釈尊の最期の言葉

釈尊:
「さぁ、修行僧たちよ、あなた達に告げよう。『諸々の事象は過ぎ去る(移り変わる)ものである。怠ることなく、修行を完成しない。』と。」

ここで尊師は初禅(第一段階の瞑想)に入られた。初禅から起って第二禅に入られた。第二禅から起って第三禅に入られた。第三禅から起って第四禅に入られた。第四禅から起って空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って無所有処定に入られた。無所有処定から起って非想非非想処定に入られた。非想非非想処定から起って滅想受定に入られた。そこで、尊師は滅想受定から起って非想非非想処定に入られた。非想非非想処定から起って無所有処定に入られた。無所有処定から起って識無辺処定に入られた。識無辺処定から起って空無辺処定に入られた。空無辺処定から起って第四禅に入られた。第四禅から起って第三禅に入られた。第三禅から第二禅に入られた。第二禅から起って初禅に入られた。初禅から起って第二禅に入られた。第二禅から起って第三禅に入られた。第三禅から起って第四禅に入られた。第四禅から起って尊師は直ちに完きニルヴァーナ(涅槃)に入れた。

釈尊の最期の言葉は『諸々の事象は過ぎ去る(移り変わる)ものである。怠ることなく、修行を完成しない。』であると言われています。