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短編小説『ビールと月さえあればいい』

  アルコールは、安らかで長い眠りをもたらせてくれないという。うんと昔は、にがかっただけのビールを、いつからか美味しいと思えるようになれた。そして生活に欠かせないものになった。

  冷蔵庫のドアを開けた。頭上のライトを消した暗い部屋のなか、その明かりだけが俺を照らした。黒ラベル、エビス、バトワイザーにエビアンが3本。焼き鳥の缶詰ひとつ、枝豆の入ったタッパー。タッパーを開けて、クンクンとにおいを嗅いだ。昨日の今日だ。大丈夫だろう。タッパーと黒ラベルを取り出した。ベランダのガラスにもたれた。空を見上げた。大きな月は俺を照らしてくれている。俺だけの月、そう錯覚する。フローリングにあぐらをかいた。プルトップに指をかけた。プシュっと耳慣れた、心地好い音がした。キンキンに冷えたそれをのどにながした。のどぼとけがごくごくと鳴った。枝豆に指を伸ばした。

 彼女とコミュニケーションを取ることすらめんどくさいと思うことがあるのに、他人となんてなおさら。「申し訳ございませんでした」頭を下げた。ホールに出ていたアルバイトの女の子が、お客様の服に誤って水をかけてしまった。ランチ時。店内はとても混雑していた。店長の俺は慌てて飛んで行った。お怪我はありませんか?ひざまずき、乾いたタオルでひざ元を拭った。泣きそうな彼女も頭を下げた。「大丈夫ですよ。すぐ乾きますから」年配の女性はそう言ってくれたけれど、同席していた娘さんらしい女性はにらみつけた。「ほんの気持ちですので・・」俺はテーブルの端にそっと封筒を置いた。クレーム対応にもマニュアルがある。まず謝る、お客様からのクレームには感情的にならずにひたすら聞く、謝罪金を渡すのは最後。だからどんなクレームにも自信を持って対応できるはず、なのにいつもビクビクする。この方がどこかの会社の偉いさんの知り合いだったらどうしよう?家族なら?これがきっかけで解雇されたら?帰りがけに立ち寄ったコンビニで500mlの一番搾り、さきいか。冷蔵庫にキュウリがあったっけ。ホール担当から教わったさきいかときゅうりの和え物を作ろう。ちぎったさきいかと荒く切ったキュウリをビニール袋に入れもんだだけのアテ。それと箸とビール缶を手に窓際へ。ほとんど買わない大缶は手に重かったけど絶対に残すまい。男が廃る。今日の月には雲がかかっていた。一番のアテは月なのに。残念。明日は見れますように。

 「今日は嫌」キッチンに立っている彼女を後ろから抱きしめた。「ご、ごめん」振り返ってにらみつけた彼女から慌ててはなれた。月曜日は休日。その日の夜になると、彼女はオレのアパートに来る。得意料理だの、覚えたての料理だの、母親に教わった料理だの多種多様の料理を作ってくれる。オレとしては飯をつくってくれることよりしたいことがある。もちろん口には出さない。彼女だって気が付いているだろうけど、無理強いしないことを知っているからそれをさらりと拒否をする。だから週一で風俗店に通う。指名するのは彼女の顔にできるだけ似ている子。体型は固執しない。出勤日は把握してる。性欲を満たしてくれないから別れるなんて、そんな馬鹿なことは言わない。誰かと出会い、好きになり、好きになってもらい、つき合い始めるというめんどくささを考えると、このくらい我慢できる。彼女はオレの腕の中で寝息を立てた。いつものように、最初から最後まで俺の、くたくたになったTシャツと短パンを身に着けたままで。微動だにしない彼女を30分ほど見ていたあと、布団からはい出した。キッチンに向かった。冷蔵庫を開けた。中にはラガービール2本とチューハイ、本搾りのグレープフルーツも2本。後者は彼女のもの。果実率が28%と高いのが気に入っているらしい。ウオッカがベース。彼女は俺よりもお酒が強い。ビールをとりだし、棚にある小皿にガス台の鍋のビーフシチューを注いだ。初めて作ったというそれはローリエを鍋に入れすぎていて、渋みが軽く出ていた。窓際に腰を降ろした。月を眺めた。ビールに口を付けた。ビーフシチューを作るときに、彼女の冷蔵庫の開け閉めの回数が多かったせいかあまり冷えてなかった。それでもかまわない。ため息とともにビールを飲み込んだ。

 季節の変わり目ごとに、あちこちの会社からたくさんの新製品が販売される。けれど、オレにはその味の違いなんてよく分からない。開発者であっても、目をつむって鼻をつまんでやった利きビールがすべて正解する奴なんていないだろう。オレののどを潤してくれるなら何でもいい。

 今日の月は少し欠けている。

 ビールと月さえあればいい。


✴️読んでいただいてありがとうございます。人はこうやって、ストレスが小さいうちに発散していくというのか正しいと思います。ストレスをためてためて爆発する自分に教えてあげたい。お酒を浴びるようにのむことを趣味にして、お酒のんでストレス発散しなさいよと。