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うらやましい孤独死【無料公開版(4)】


第2章 破綻都市・夕張でわかったこと。


 夕張に行こうと思った理由のひとつに「自分への負い目」があった。 それまで私は、自分の医療知識を深め、医療技術を磨くことこそが善だと思っていた。 そうすることが患者さんのためになることであり、ひいては国民の幸福に貢献することなのだと信じていた。 しかし、療養病院の大部屋で、ただただ白い天井を見つめたまま寝たきりの高齢者がずらっと並んで胃ろうから栄養を入れられている光景を見たとき、それまで自分が磨いてきた胃ろう造設術などの医療技術や医学的知識が「善」に思えなくなってしまった。


 研修医時代の忘れられない患者さんがいる。ある病院で夜間当直のアルバイトをしていたときに出会った高齢女性で、認知症の患者さんだ。 夜なのに眠れず、何回も大声を出すので睡眠薬を使っていいか、と看護師から連絡があった。 研修医の私は、まず患者さんの様子を見てからと思い、その患者さんの部屋に行ってみた。今でもそのときの光景は目に焼き付いている。

 患者さんのベッドの四方には柵がつけられており、手にはミトン(パンを焼くときの大きな手袋のようなもので、柵をのぼったり点滴を外したりできないよう指が使えなくなっている)をはめられ、そのミトンはベッド柵に紐でくくりつけられていた。自由に手を動かせる範囲はごくわずかである。何かを取ることも、かゆいところを掻くこともできない。 私を見るなり患者さんは涙を流して「これを外してください!」と言った。彼女の目は本当に真剣で切実だった。 「認知症だから何もわからない」などという言説はまやかしだ、と彼女の目は爛々と訴えていた。


 私の頭は真っ白になった。私はその夜しかその病院に関わることのない一介の研修医だ。主治医でもなんでもない。病院のシステムの中で私に求められているのは、「大声を出したり暴れ出した患者に対して病院内のルールに従って粛々と睡眠薬を出す」ことだった。 私は何もできなかった。助けを求める彼女に対して一つの言葉をかけることすらもできなかった。彼女を目の前にただただ立ち尽くすしかなかった。 私がしたことは、彼女の切実な視線と助けを求める声から逃げるように病室を後にすることだった。
 期待を裏切られた彼女の悲痛な声を背中で聞きながら、私は力の限り拳 を握りしめた。

「果たして医療は人々を幸福にしているのか?」
「助けを求める彼女を助けられない自分はなんのために医者になったのか?」
「こんな医療の中で自分にできることなんてあるのか?」

 そんなさまざまな思いが腹の底からどくどくと湧き上がってきた。 次々に湧き上がる思いは、医師として知識も技術も一人前になりつつあり、医療のことをわかったつもりになっていたそれまでの自分を一気に奈落の底に突き落としたのだった。 一橋大学に6年、宮崎医大に6年、ともに国立大学だったから、みなさまの税金を使いながら12年も勉強させていただいたにもかかわらず、自分のやっている医療が国民のみなさまの幸福に寄与していると思えなくなってしまった。 これは本当につらかった。もう医師をやめて好きなラーメン屋でも始めようかと本気で考えた。 今思うと、これが私の医師人生における最初の「衝撃」だった。


私を変えた、ある事件


ちょうどそのころ、同じ病院である〝事件〞が起きた。 同僚の高野学医師が、超高齢で老衰としか言いようのないおばあちゃんに対して栄養療法をせずに少しの点滴だけで看取ろうとしていた。 彼は、医学生時代に一緒にバンドをやっていた同級生で、研修病院もずっと同じだった。その措置を見て、私は彼に言った。

 「胃ろうとか中心静脈栄養とかで栄養入れなきゃ死んじゃうんじゃない?」 落ち着いた表情で彼は言った。 

「老衰なんだから、それでいいんじゃない。下手に栄養とか水分とかを入れすぎると、 逆流して肺炎になったり、体がパンパンにむくんだりしちゃうし」  

彼のやり方は私にとって〝事件〞だった。私にとっては、栄養療法で患者さんを一日でも長く生かすことが常識だったからだ。 だから私は患者さんとともに高野医師のことも心配してこう告げた。 「でも先輩の先生たちもそんなやり方はしていない。そんなことをして、ご家族から訴訟とかされないか?」

 「ないない。しっかり家族の気持ちを聞いて、こっちも説明して信頼関係を作れば大丈夫。いまは逆に感謝されてるよ」当時の私にとって、彼のやり方は衝撃的だった。 

「標準的な治療」という言葉を建て前にして、患者さんや家族の気持ちに向き合うことから逃げているのは私のほうなのではないかという疑問が湧き上がってきた。
 もしかしたら、あの夜間当直中に真剣な眼差しで助けを求めていた高齢女性のあの光景も、そんな「逃げ」の医療の延長線上に続くものだったかもしれないのに。
でも、私はすぐには彼のようにはなれなかった。まだまだ「病院医療の常識」の世界観から抜け出せなかった。

 なぜか? まわりの病院スタッフのみんなが共有している病院文化、その中ではみんなと一緒に常識どおりに呼吸をしていたほうが圧倒的に楽だったからだ。 悩みながらもまだ私はそこから抜け出す勇気を持ちきれずにいた。

そんな悩みの中にあったとき、私は『村上スキーム』(村上智彦、三井貴之著、エイチエス)という書籍に出合った。 その本は、夕張の財政破綻・病院閉鎖後の医療を請け負った村上智彦医師が、予防医療や終末期医療など、病院医療に頼らない真の患者中心の地域医療を描いたものだ。
夢中になり、一晩で読み切った私は、脳天が沸騰するくらいの衝撃を受けた。  

村上先生曰く、「医師法第1条には、『医師は医療だけでなく保健指導や公衆衛生なども掌って国民の健康を確保するもの』と書いてあるのだから、病院の中にいるだけでは十分ではない。地域の中にどっぷり浸かって住民とともに歩まなくてはいけない」。  

 私がまだまだ囚われていた病院の世界。村上先生はそこから抜け出せ!と言っていた。 しかも病院がなくなってしまった街のど真ん中で。 真摯に住民の健康と幸福を追求する地域医療の理念と、それに向かって邁進する村上先生の姿が描かれていたその本は、まだまだ迷いの中にあった私の心を真正面から射抜いた。 もともとは経済学部出身でもある私は、財政破綻後の世界を見てみたいという興味、 さらに財政破綻・病院閉鎖の前後のデータを比較してみたいという思惑もあり、村上先生がいる夕張に行ってみたくてたまらなくなってしまったのだ。 居ても立ってもいられなくなった私は、お会いしたこともなかった村上先生宛に、夕張市立診療所のホームページ経由でメールを送った。とにかく夕張に行って、現場をこの目で見てみたいという一心だった。


正直に自分の迷いをメールでぶつけると、村上先生は夕張行きを快諾してくれた。 結果、妻と子ども、そして生まれたばかり生後4カ月の赤ん坊を連れて夕張に旅立つ ことになる。

私が実際に夕張に赴いたのは、夕張市が財政破綻してから2年後の2009年だった。 夕張市の医療はすでに市立総合病院171床から19床の市立診療所に大幅に縮小されていた。


新しい医療体制を請け負ったのは村上先生だ。夕張市は莫大な負債(年40億円規模の税収に対して約600億円の負債)を抱えており、医療体制にも潤沢な資金を提供できるわけではない。そのため市は運営を民間に委託する「公設民営」を医療体制の前提としていた。 村上先生は「夕張希望の杜」という医療法人を設立し、新たな医療体制の構築を目指していた。私が赴任したのはちょうどその構築途上の真っ只中だった。 新たな医療体制というのは、子どもの予防接種からお年寄りの看取りまで、また内科から整形外科・軽い怪我の処置まで、年齢も疾患も問わず幅広く地域に必要な診療を行なう「プライマリ・ケア」を重視した体制のことである。その代わり、手術などの高度急性期医療、救急医療などは大幅に縮小し、その部分は大都市圏の総合病院におまかせすることになっていた。


医学的正解の崩壊

夕張の医療現場での体験は本当に毎日が目からウロコだった。 それまで培ってきた医学的正解に基づく病院医療の世界がことごとく打ち砕かれた。 いや、「医学的正解」はそのまま変わらず厳然としてあるのだが、それを現場にどうやって落とし込むのか、そこに「正解がない」ことに、初めて気づかされたのだった。 たとえば、90代でアルコール中毒の男性・萩原さん。肝臓も肺もボロボロで体はもうとっくに限界のはずなのに、自宅で朝から焼酎を飲んでいる。 萩原さんはそれまでなんとか外来に通ってきていて、診察室ではそれなりによそいきの顔を繕っていた。しかし、訪問診療に切り替わって自宅に足を踏み入れた瞬間、私はその焼酎だらけの部屋の事実を目の当たりにすることになった。


次回、うらやましい孤独死【無料公開版(5)】につづく



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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)