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うらやましい孤独死【無料公開版(1)】


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まえがき


「うらやましい孤独死」
奇妙なタイトルの本を書いてしまった。 この本を手にとられた方はどんな思いでおられるのだろうか。もしかしたら「孤独の 美学」とか「孤高の生き方」などというポジティブな内容をイメージされているかもし れない。

たしかに、孤独を美化するような風潮も世間にはある。 最初にお詫びしておきたい。本書は決してそのような本ではない。 一言で言ってしまえば、本書でこれから展開するのは、 「それまでの人生が孤独でなくいきいきとした人間の交流がある中での死であれば、た とえ最後の瞬間がいわゆる孤独死であったとしても、それはうらやましいとも言えるの ではないか?」
という趣旨である。

さらに言えば、孤独死を過度に恐れるあまり独居高齢者が容易に施設に収容されてし まう風潮にも一石を投じたいとも思っている。 率直に言おう。いま、高齢者施設はそうした高齢者の〝収容所〞になってしまってい る。 高齢者でも若者でも、人は人間関係の中で生きている。しかし病院や施設への収容は それまでの地域での人間関係を断ち切ってしまう。 人間がかかるもっとも重い病気は「孤独」である。 孤独は確実に健康を害する。健康を害する要因として、喫煙や肥満・アルコールなど が有名だが、じつはそれらを抑えてもっとも健康を害する因子とされているのが「孤 独」なのだ。このことはいくつもの科学的調査で証明されている。 「万一、何かあったら心配」「一日でも長生きしてほしい」......。本人に良かれと思っ て誰もがとる行動が、じつは高齢者を孤独に追いやっているのだ。

「地獄への道は善意 で敷き詰められている」のかもしれない。

 私はそんな医療・介護の現場を山ほど見てきた。 「好きなものを食べたい」「自由に外出したい」「死ぬ前にもう一度自宅に帰りたい」、そんな人間として当たり前の希望を、願っても仕方がないと口に出すこともできない。 そうした高齢者の方々をたくさん見てきた。 どんなに安全を求めても、安心を願っても、人間は必ず死ぬ。いま本当に求められて いるのは中途半端な〝安全・安心〞ではなく、その〝安全・安心〞の呪縛から高齢者の 生活を解放することなのだ。「うらやましい孤独死」は、そのもっともわかりやすい例 だろう。  

本書は、現代の医療システムへのアンチテーゼとして「孤独死なのにうらやましい」 といえる事例と、その理論的背景を集めたものである。 読みながら、あなたの「孤独死」観が変化し、親や親族の最期、さらには自らの最期 について考えるきっかけになれば、こんなに嬉しいことはない。



第1章 私が見た「うらやましい孤独死」




「本当にうらやましいよ」


「孤独死」という言葉を聞くようになって久しい。一人暮らしの人が誰にも看取られる ことなく、アパートなどでひっそりと死亡することを「孤独死」と言うようだ。 インターネットで「孤独死」と検索して出てくるのは、
「孤独死した 代女性の部屋に見た痛ましい現実」
「毎日約 名が孤独死。その壮絶な現場で何が起きているのか」
といった、孤独死の壮絶で悲惨な現場を誇張する記事だ。「孤独死」についての一般 的な印象がいかに痛ましいものであるかがよくわかる。

私もかつては孤独死に世間一般 どおりの悲惨な印象しか持っていなかった。 そんな私が「うらやましい孤独死」という言葉を耳にしたのは6年前の夕張だった。 ある高齢女性が、独居の実姉が自宅のソファーで横になって亡くなっているのを発見 した。発見時にはすでに死後数日経っていたようで、これこそ世間一般で言われるとこ ろのいわゆる「孤独死」である。

しかし、彼女は私にこう言った。

 「本当にうらやましいよ。コロッと逝けたんだもの。あの歳までずっと元気に畑もやっ ててね。夕張のみんなに囲まれてさ。やっぱりここがいいんだよ、住みやすい。都会に は行けない。都会行ってアパートだの、施設だのに入りなさいって言われてもね。夕張 で最期までみんなと元気にしててコロッと逝けたらいいよね。本当にうらやましい。都 会に行ったら早死にしちゃうよ」

 私はこのとき、耳を疑った。自分が抱いている孤独死のイメージとはかけ離れた「う らやましい」という言葉に驚愕したのだった。そこには悲壮感がまるでなかった。 なぜ彼女は、痛ましいはずの孤独死を「うらやましい」と言うのだろうか。日本中で 問題になっている、「死後数カ月経って腐乱死体として発見される」ようなケースとは いったい何が違うのだろうか。


医師の〝究極の目標〟とは?


私はこの問いに対して拙著『破綻からの奇蹟〜いま夕張市民から学ぶこと』(南日本ヘルスリサーチラボ)でこういう趣旨のことを書いた。 


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「孤独死」というと、えてして死という事象に注目してしまう。しかし、じつは死にも まして「孤独」のほうにこそ注目すべきなのではないだろうか。 孤独死の問題の本質は、死ではなく、高齢者がそれまで孤独に生活していたことでは ないだろうか。そう、孤独のほうにこそ問題があるのだ。腐乱死体にまで至ってしまう のは、その孤独の結果だろう。 逆に夕張の例は死に至るまでの生活が孤独ではなかったのだ。そもそも人間の死亡率 は100%、誰もがいつか必ず死を迎える。その死に至るまでの生活が、地域の絆とい う人間関係の中でのいきいきとしたものであれば、それはある意味人間としての本来の 姿でありそれこそ「うらやましい」と言えるのかもしれない。 社会全体として重要なことは、いずれ必ず訪れる「死」の瞬間が一人なのかそうでな いのかということにもまして、人生の黄昏時を迎えた人々の生活を孤独に追いやってし まってはいないか......という点にあるのではないだろうか。

***






手前味噌ながら、私は今でもこの考察を的確なものだと考えている。 その理由の一つが医師法第1条だ。そこには「医師は医療および保健指導を掌るこ とによって公衆衛生の向上および増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するも のとする」と書いてある。 つまり、医師の究極的な目標は「国民の健康な生活を確保すること」であって、手術 も高度医療機器も保健指導も公衆衛生も、そのための道具でしかないということだろう。 そういう意味では、疾患やその結果としての死にもまして、「国民の健康な生活」を 大きく阻害する「孤独」という社会的要因をクローズアップできたことは一定の意味があったと思っている。  

とはいえ、この考察に対しては、その後いくつかの批判をいただいた。 その多くは「当該事例はいわゆるPPK(ピンピンコロリ)の事例であって、それが たまたま独居の高齢者だっただけである。うらやましいのはある意味当たり前である」 というものだった。

なるほど、うらやましいのは「孤独死」ではなく「PPK」だった、というわけであ る。たしかに夕張の事例はそう言えなくもない。これは的を射た意見であろう。  

では、やはり「うらやましい孤独死」など存在しないのだろうか?  

いや、そんなことはない。私は断言できる。それは実際にこんなおじいちゃんを知っ ているからだ。 彼は、「天涯孤独」だからこそ自分の人生の終わりを自分の意志どおりに全うするこ とができた。


無料公開版(2)へつづく。



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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)