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残像論断章(一)──短詩

外山滋比古「修辞的残像」(著作集第一巻所収、みすず書房)をきっかけに「残像」という現象は人間の経験の重要な契機となっているに違いない、と考え始めてもう10年くらいになるが、映画、文学、音楽、記憶…など思いつくことは多いがなかなか果たせない。構成された論考がいつの日になるかしれないが、とにかく断片を書き連ねていくことにした。

❖言語経験を「残像」として、なおかつ文芸作品の読みと関連づけて理解しようとするのが外山滋比古の「修辞的残像」という主張である。外山は次のように述べている。

言葉とは──書かれるとはっきりするが──一つ一つは断絶した単位のつながりからなっている。その一つ一つの単位は、静止し、他との単位との間には、程度の大小はあっても表現的空白を抱いているものである。……こういう静止的な、しかも、各単位ごとにその溝のあるもののつらなりである言葉、それを「読む」作業は切れ目ない一つのつながりの動きのあるものとして理解するのである。

「一つ一つは断絶した単位」とは「文字」のことにほかならない。
つまり、人間はあたかも視覚的な残像経験のように、言葉の単位の切れ目を自ら充填しながら経験し、連続したものとして「読んで」いる。言葉(文)が別の言葉との統辞的な連関からなっている以上、今読まれようとしている言葉は、すでに読まれた言葉の残像に重なりあいながら、響きあっている。文芸作品もこの言葉の残像から自由であり得ない──というよりそれが文芸作品を可能にしている。「読む」という行為は、「前の文字(言葉)」の記憶=残像が揺曳する中で「今の文字(言葉)」を経験し、「次の文字(言葉)」の経験に向けて準備することなのである。
外山は、「修辞的残像のもっとも活発な作用が見られる文芸様式」として、日本の短詩型、特に俳句に注目している。五七五というあまりに小さな形式では何かを一貫して表現するということは不可能である。そこで、俳句では「切れ字」を重要視することは広く知られているだろう。外山は芭蕉句「古池や蛙飛びこむ水の音」を例に引いているが、こうした例はいくらでも挙げることができる。
❖たとえば久保田万太郎の有名な句

湯豆腐や命のはてのうすあかり

の「や」の部分のように、句の途中で感嘆詞や動詞の終止形などによって、句の中に大きな切断が作られる。通常の散文であれは「湯豆腐」の後には助詞「に」などが続き、その性質などが描写される、あるいは対象として主体が働きかけることが述べられるだろう。ところが、俳句では「や」と切断してしまって、それについてなにか述べるということをしないことが多い。こうした切断によって、言葉は継起性・連続性を失うが、中断された沈黙の中で、強い残像が生じる。
切れ字は強い切断を導入することによってその直前の言葉のイメージの残像を増幅するのである。これによってどの方向にも解釈できるような複数のあいまいな文脈が生まれ、意味はにじむような空間を得ることになる。

❖またたとえば、与謝蕪村の句

いかのぼりきのふの空のありどころ

では、「いかのぼり」という体言で切れる。この句に関しては、「凧は今日も空に見えている、それは昨日の空の同じ場所だ」という解釈が一般的である。しかし「今日の視界に凧はないが、昨日には凧があのへんの空に上っていた」という、いわば不在と残像を主題にした句であると考えたほうが切れ字の効果にふさわしい。

❖また俳句における言語の修辞的残像、それ自体がその作品のもっとも大きな表現となっているものに高柳重信の句がある。

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

高柳の句は、外山の言う修辞的残像を言葉でもう一度なぞるような表現を持っており、その大きな契機として必ずしも五・七・五ごとではない改行と字下げが導入されている。これを一行にしてしまったら、その謎めいた魅力は半減してしまうだろう。切断された極小の単位がカリグラム的表現を形作りつつ、それぞれの単位が残像を介してお互いに異化効果を与えあっている、とでも言ったらいいだろうか。

❖最後に自詠をあげておく。すぐに判明するように斎藤茂吉の「めん雞(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行にけり」を下敷きにしている。
喉がかき切られた時、声は凝固して、文字となり、残像あるいは残響を残す。

鶏(にはとり)ののど掻き切らる その聲は冷え凝(かた)まりて文字となりゆく


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