読書ノートを公開する理由

なぜ既存の文献に対する批評ノートを公開するのか。なぜこのような損な役回りを率先して引き受けるのか。日本における初期アメリカ史研究の現状をかんがみて、事実として存在する数十年の遅れをどうにか取り戻そうとしたとき、最短ルートがこの方法ではないかと思われた。いうまでもなく、気付いていない課題は、偶然を除き、解消されない。既存の研究のどこに問題があるのか、認識してそれを具体的に検証することにより、その問題を確実に、そして、効率よく解決していくことが可能になる。この批評が、僭越ながらそれぞれの著者の今後の研究に生かしていただけるなら本望だし、それぞれの論考の読者に対しては、1つの読み方の参考や相反する見方あるいは発展的な見解を提示することにより、偏りや誤りを防ぐとともに想像力を刺激して理解を深める助けとなれば幸いである。ときにストレートな批判になるかもしれないが、それだけ現在の状況が好ましくないこと、そして、(世代間対立を煽るわけではないが)怠惰なくして何十年も遅れるかという半ば怒りと呆れの感情からきていることを考慮いただきたい。なお、それぞれの批評は必要な範囲で内容紹介を含むが、それだけで全体の内容を理解できるようには必ずしもなっていない。このノートは、読書の友として、それぞれの文献の傍らに置いて使ってほしい。

言い換えれば、この批評ノートは、研究者どうしの有機的つながりを望んでのものである。研究者の少ない分野では、それぞれの研究者が成果を出版しても、それぞれが孤立してしまい、なかなか全体でレベルアップしていかない。学会での質疑応答や新刊の書評といった一時のタイミングで言えることは言えても、のちにふと何か思いついたことや研究の進展とともに感じるようになったことを自由に表現できるものがあってよい。もちろん、そこで差し障りのないことを言って褒め合うだけならその価値は半減してしまう。問題意識を持って、かつ謙虚に、個人としても全体としても、解明できていないこと、議論から抜け落ちてしまっていること、理解が及んでいないこと、そういった部分も具体的に指摘し合い、可視化させ、対処していくプロセスが大切になってくる。

そして、この批評は、私の過去の様々な原稿の査読者に対するレスポンスととらえていただいてかまわない。通常、査読者の名前は原稿の著者には明かされないが、同一あるいは近隣の分野の研究者が務めたことと思われる。私は彼らから、有益なものから(誰しもが経験を有することと思うが)怪訝になるものまで、様々なコメントをいただいた。直に彼らの知識や能力に触れるなかで、この査読者たちは自分ではどんな研究をしているのか、そんな興味を抱くようになった。正直なところ、日本語の文献は、日本語母語話者として読みやすいという点では役に立つけれども、英語圏が本場の分野の研究者としては、(少なくとも、おくれを取っているこの分野では、)オリジナリティのある研究を出版するうえでそれほど重要とは思えなかった。しかし、日本語文献の批評ノートをつくり始めて詳細に読むなかで、自分の理解が大いに深まっていることを実感している。そして、それを内にとどめておくのはもったいないと思うようになった。

現在の学界で主流となっている査読システムについては、出版までに数か月以上の時間がかかること、査読者側に時間や労力の負担があることといった様々な課題が指摘されている。また、原稿が適切に評価されるかどうかという問題も、本場と比較して研究の遅れている分野や研究者の少ない分野では、そうではない分野に比べてはるかに生じやすくなる。原稿の著者からすれば審査側の事情に起因する問題ほど無力感と不公平感にさいなまれるものはないし、審査が研究の進展の邪魔・阻害の要因になっているとすれば、質を担保する(そのプロセスのなかで原稿を改善することも含む)という本来の目的・機能に照らして本末転倒で、機能不全を起こしているといわざるをえない。そういったなか、プレプリントや出版後査読など、新しい仕組みがうまれつつある状況を素直に歓迎したい。従来の査読の閉鎖的な学術的コミュニケーションでは、そこでのコメントが表に出ないために、そのコメントの妥当性が編集委員会のなかで限定的にしか問われないばかりでなく、そのコメントが誰かにもたらすかもしれない大きなひらめきをも未然に封じてしまっていた。この批評ノートはそうではないので、的外れな批評があれば喜んで教授願いたいし、将来世代も含めた誰かの研究につながって大きく花開くなら幸甚である。ここのコメントは直接的に誰かの原稿の出版を差し止める効果をもつような非対称な関係にあるものではない。批評対象の論考とともに、オープンという同じ立場でなされる議論として吟味してほしい。

このノートでは、批判や解説が加えられるべき二次文献を順次扱っていく。批評や解説は大きく分けて2種類あり、1つめは、それぞれの論考でとられている見解とは別の見解を提示するものである。これはとくに、その論考の出版から長い期間が経って英語圏で新しい研究が出ている場合や、その論考が出版当時から存在した他の見解を述べていない場合であり、日本語の研究書の少なさから生じている偏りを直すためのものである。もう1つは、それぞれの論考でされている議論に対して意義を確認したり疑問を呈したりするものであり、論理的に一貫性を持って主張が展開されていないこと(シンプルにunityなどのライティングの問題)や、専門的知識ならびに具体的な事実関係の誤りについての指摘も含まれる。そういった問題は批判的思考を持つ読者の前では有意義ではないにしても無害であるので放置してもよかった。ただ、査読との関係で一般論をいえば、自分の主張すら理路整然と述べることができない人やその分野の専門的知識を十分に持っていない人が査読者を務めているとするなら、そこに信頼関係を築くことはできない。各論考の著者と過去の私の原稿の査読者が一致するかは知らないが、それがこの分野におおまかに当てはまっているか否かはこのノートの読者が各自判断すればよい。いずれにせよ、今後、学術コミュニケーションの実りが増していくこと、また、有意義な論考が増えていくことを期待したいし、私自身もまわりからたくさん学んでよい研究成果を出せるよう努力したい。


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