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東寧王國

台湾は、ずっと植民地であったり中国の統治を受けていたりして、最近まで自分たちの政権で自主的に政治を行ったことがなかったと、この様によく言われます。しかし、ある時ふと思いました。明鄭の20年、この時代は中国のくびきから離れ、日本からの束縛もない。もしかすると、この20年は台湾に生活する人間自らが、台湾島の政治を動かした初めての経験になるのではないか?

台湾では、この明鄭の時代を、東寧王国時代と呼んでいます。

開祖は鄭成功

日本でも台湾でも、鄭成功の事績はとても有名です。台湾からオランダを追い落とし、台湾に漢民族の政権を打ち立てた人物。台湾開国の祖とまで言われることもあります。
しかし、この鄭成功は台湾上陸後2年を経たずに亡くなってしまいます。死因は伝染病によるというのが定説のようですが、他にも怒り心頭に発し、おかしくなってしまったという様な説明も読んだことがあります。

鄭經・陳永華の治世

鄭成功の後を継いだのは、息子の鄭經です。彼がこの国のトップとなり、18年にわたり台湾島を治めていきます。彼のブレーンになったのは陳永華。この人物が鄭成功から鄭經に引き渡されたこの政権を、宰相として支えていきました。
この政権の後半、鄭経は清朝の三藩の乱に乗じて、中国大陸への反撃を試みますが、この試みは康熙帝の指導により乱が収められると共に失敗に帰し、彼は台湾に戻ってくることになります。

一方,陳永華はこの間一貫して台湾島内部での政権維持を司っています。彼は自分の娘を鄭経の息子に嫁がせていることなどもあり、この鄭経の王朝において中心的な役割を担っていたのだと考えています。

イギリスとの交易

この鄭經の東寧王国は、鄭成功の時代からの国家経営を引き継いでいるので、多国間の交易を国庫の収入源としています。また、オランダを台湾から追い落としているため、東寧王国とオランダ、そして清朝との間には正式な国交関係を結べず、従って基本的な交易もなされていません。

そんな状況の中、イギリスが東寧王国との交易対象国となっています。イギリスの史料によると、この鄭經率いる東寧王国は、Kingdom of Tungningと称されており、東寧王の率いる独立国家と見做されています。

康熙帝による台湾統一

鄭經率いる東寧王国のこの時期は、中国本土では清朝の康熙帝の治世にあたり、清朝が勢いを持っていました。康熙帝の治世の初期は、自身が幼少のため皇帝としての権力の集中を図り、中期にはジュンガル部の反乱、三藩の乱など、大陸内部での抗争に明け暮れます。1680年代になり、これらの内乱の決着がつき、ようやく台湾統一に政治の主眼が向く様になります。

一方、福建巡撫の姚啟聖と清朝の海軍を統括していた施琅は30年に渡り、鄭家軍の打倒と台湾の統一を悲願にしており、この2人が主導して、或いは相争って台湾への軍事進攻計画を進めていきます。
台湾の東寧王国はこの2人の福建のリーダーによって攻略されます。

この政権はどう位置付けたら良いのか?

この鄭經と陳永華による東寧王国は、どのような政権と考えたらよいのでしょうか。
この東寧という名称は鄭經が雲南にいた永曆帝が崩御したのを受け、台南の地を東寧と名付けたことに由来しています。この時期、鄭家軍の統治している地域は、台南を中心とした限られた範囲であり、台湾全土の統治には程遠い状態でした。大部分は原住民の王国が支配している地域であり、台湾全体で考えると、一地方政権と捉えざるを得ない状況だったでしょう。

明鄭時代の行政区画

台湾の国民党政権は、当初自らの反攻大陸のスローガンを鄭氏政権の反清復明政策と重ね合わせ、鄭成功と東寧王国を、明朝を正統とし大陸への再攻勢を意図した政権として評価してきました。この大陸反抗の政策は、鄭經の時代実際に三藩の乱に乗じた中国南部への攻勢として実現しています。そのような面は確かにあります。

一方、鄭成功が福建の自らの勢力を台湾へ移すと考えている時点で、この政権は台湾の地に長期に定住することを前提とした、さまざまなな施策を実施しています。屯田兵制度による兵士の農業への参加とか、学校の設立、政府の組織を明王朝に模して制定することなどです。このような面に注目すると、この政権は台湾での長期的な安定を目指していたとも考えられます。

このような、東寧王國が台湾での開発を行った面に注目すると、台湾における台湾の漢人のための政権であったと言えるように思います。
これから陳永華の事績を詳細に紹介する予定で、そうすればこの政権が台湾でどの様な政治を行なっていたのか、具体的に見ることができると考えています。

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