【吃音】吃音のある人は、障害者なのか?個性なのか?
障害者とは?
障害者についての定義は、下記のように記されています。
「障害者」とは、障害者総合支援法によると身体障害・知的障害・精神障害(発達障害を含む)その他の心身の機能の障害があり、障害および社会との関わり方によって生活や仕事に制限を受けている人とされています。
吃音のある人は、障害者なのか?
この内容からみると、「生活や仕事に制限を受けている人」ということですので、吃音の症状がある=障害者とはいえないのではないかと思います。
インターネット、文献、書籍などでは、「発話障害」「言語障害」と記載されているものもあります。また、Wikipediaでは「精神医学的障害の一種である」と記載されています。
各個人で情報を調べている中で、吃音のある人は「障害者」という認識になってひどく落ち込み、不登校になったり、自分自身を傷つけたり(自傷行為)、自身や周囲を責め続けたりしてしまう人がいます。
「障害者」というレッテルを自分自身で貼ってしまうのです。
でも、これは、情報を提供・掲示する側にも問題がある場合も否定できません。
吃音のある人は、「流暢に話すのが難しいときがある」「話すことが不得意」という傾向のある人です。
足が速い人と遅い人がいるように、歌を歌うのが得意な人と苦手な人がいるように、誰しも得意・不得意はあると思います。
話すのが少し不得意なのが、吃音のある人というかたちかと思います。
また、不得意は、環境を調整したり、練習やトレーニングで変えていくことは十分に可能かと思います。
環境を調整したり、正しいトレーニングをして、相応の時間はかかりますが、「不得意なこと」を「得意なこと」「まあまあなこと」に変えていくのです。
しかし、ここで注意が必要なのは、完璧(完璧以上)を目指さないこと、そして、生活上で困らないレベルになれば良いこと、です。
当院の担当医師も下記のような例え話をよくします。
『100mを15秒で走る人が、トレーニングなどをして、100mを13秒くらいでは走れるようになるかもしれない。でも、100mを15秒で走る人が、9秒台を目指そうと思うとすごく大変だし、9秒台で走れるのはほんの一握りの人だけ。9秒台で走れるようにならなければ日常生活が送れないわけではないし、15秒とか13秒で走る人でも全然生活していける。でも、困り感がある場合は、それを我々と一緒に解消していく必要はある。だから、話すことでも完璧を目指さないことが大事。どんなかたちでも、伝われば問題ないわけだから。』
『すごく流暢にとにかくたくさん話すけど、「こいつ、結局何が言いたいんだ?」っていう人もいっぱいいる。それよりも、話すことが少し不得意だとしても、ちゃんと伝わることのほうが大事。そういう人のほうが信用できる。』
100mを9秒台で走る人って、世界で戦うトップアスリートですよね。
話術のトップアスリートになる必要がある場合は別ですが、多くの人はトップアスリートになる必要はなくて、困らなければいい。
人にはそれぞれ得意・不得意があるように、不得意でも困り感を感じない人もいるように、話すことが不得意で困り感を感じている状態が「吃音」といえます。
私がホームページ掲載用の文面を考えるときや普段の臨床などでは、『障害』という言葉・表現は使わず、「~な状態」などの言葉・表現を用いるようにしています。
吃音は『個性』なのか?
「吃音を『個性』としてみてあげてください。」
吃音のある人やその家族は、こう言われた時にどう感じるでしょうか?
「『個性』で片付けてほしくない」とか「『個性』とは違うと思う」と感じる人もいます。
多くの人は、困り感を解消したいと思っています。
困り感が解消できない状態で「個性だから(仕方ない)」と言われても辛いだけなのです。
まとめ
障害者でもなければ、個性として片付けていいものでもない。
困り感がある場合には、それを解消するための支援をする。
吃音のある人や周囲の人たちの困り感が軽くなること、それが望ましいかたちといえるでしょう。
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