【ミニマム推理小説】キタナカ家の日常

「珈琲が、無いっ!」

 彼女の声が、決して広くはない我が家の居間に響いた――。
 私は彼女が言っている言葉の意味が分からず、眠い目をこすりながら自室から居間へと向かった。彼女は通常時は声が小さいくせに、狼狽すると大きな声を上げるので異常事態であることは間違いがないだろう。

「どうしたんだい? 『珈琲豆が切れた』って訳じゃあ無さそうだね」
 意識して、ゆったりとした口調で彼女に聞いてみた。
 今、彼女は一種の興奮状態にある。話しかける際には、まず落ち着いてもらわないといけない。しかし珈琲とは又、厄介な「事件」が起きてしまったものだ。彼女は最近まで喫茶店で働いていた経験があり、珈琲に関しては一家言ある女性なのだ。だから、珈琲に関する妥協を彼女は絶対に潔しとしない。つまり、これは「解決すべき案件」である。そう判断した。
 私自身における珈琲は、「気分を切り替える」ツールである。銘柄等は関係なく「珈琲豆がミルで粉砕される音」から「ドリップされている雰囲気」を楽しむ、謂わば「儀式」のようなものだ。
 見解の相違はあっても、同じ珈琲好きとして彼女の困難を解決したいという感情を持つのは、自然なことだろう。

「珈琲が、淹れたはずの珈琲が見つからないわ!」
 ふむ。この事件は厄介になりそうだぞ? と思い、居間のテーブルや電子レンジの上などにマグカップが置いてあるのではないか? と確認しながら彼女に語り掛けてみた。
「少し情報が足りないから、君に起こったことを順序だてて話してくれないかな? それは、『珈琲がカップに入った状態で、どこかに消えた』という認識で良いのかな?」
 彼女は「こくり」と頷いてから、それほど広くないテーブルの調味料入れの死角等を探している。やれやれ、そこは私から目視できる場所だよ。彼女は、よっぽど「淹れたての珈琲」を楽しみにしていたのだろう。
 だが状況は思わしくない。彼女は居間のあちらこちらを、狼狽しながらうろついている。猶予の時間は、思ったほど長くは無いのかも知れない。

「少し、少しだけ待っていてくれ」
 若干ではあるが痛むこめかみを押さえながら、冷蔵庫へと向かう。私は元来、朝は頭の血の巡りが悪いのだ。事件というものは「私が起きた時間」から「寝る時間」までに起こって欲しいものだが、大抵の場合は不意に起こって私を混乱させる。「マーフィーの法則」というものだろうか? 馬鹿らしい。想定内の時間に起こった事件は、記憶から消えているだけだ。自分の下らない考えに首を横に振り、苦笑しながら冷蔵庫を開けた。
 冷蔵庫に入れておいたコーラのプルタブを片手で開けて、飲みほした。一口サイズのコーラは一気に飲み干せるので、不意の事態を想定してストックしてある。炭酸飲料の刺激と糖分が、少しではあるが私の脳を活性化した気がした。

「『君が本当に珈琲を淹れたのか?』という事実関係を、確認させてくれないかな?」
 彼女は不思議そうな顔をしているが、私はいたって真面目だ。狭い家だから、彼女が電動のコーヒーミルを使用している音は、私自身も聞いている。
 だからといって、私は彼女がコーヒーを淹れる瞬間を見ていた訳ではないのだ。喫茶店で働いていた彼女が「いつものように」取っている行動だからこそ、疑問を挟む余地があると考えただけだ。もちろん、彼女の証言を疑っている訳でもない。
「ええ。コーヒーメイカーを使って、朝の珈琲を淹れたの。それだけは間違いないわ」
 なるほど。私は念のため、コーヒーミルの中に珈琲豆が残っていないかを確認した。そして彼女の行動と私の得ている音情報が一致しており、「どうやら、彼女は本当にコーヒーを淹れようとしたらしい」という「事実」だけを脳に入力した。というのも、「認識した事実」と「真実」が同じとは限らない、というのが私の持論だからだ。

「それでは、ミルした珈琲豆を捨ててしまった可能性は? そこにあるフィルターは、昨日の残りだったりしないのかな?」
 その言葉は、たいそう彼女の気分を害したらしく、むっつりとした表情になった。私は、必要な場面では他人を不快にさせる言葉でも、使うことを厭わない。それが「真実」に近づくためなら、なおさらだ。表情を変えぬままに彼女は言った。
「まだ、コーヒーメイカーが温かいわ。淹れたことは間違いないわ!」
 鳴呼……。私が立てた推論と同じことを言う彼女を見て、「これは、最悪の展開も覚悟しないといけないな」と、彼女に聞こえないよう気を遣いながら、私は呟いた――。

「それでは。どのマグカップに淹れたかは、覚えているかな? そして。そのマグカップは、この狭い居間から消えてしまっているんだね?」
 彼女は頷いた。この状況は、密室事件に近い。だが、コーヒーもマグカップも行動すること自体が有り得ない。そして、仮に行動を取れたと仮定しても別行動することは出来ないはずだ。つまり、「マグカップ」の在り処が、液体である「珈琲」の居場所の鍵であるということに他ならない。
「ええ。うちにあるコーヒーメイカーは小さいから、決まったマグカップで作っているわ。それから他のマグカップに移すこともあるけど……」
 分かってしまった。これは、最悪な結末だ。私は彼女の混乱ぶりを予想しながらも残酷な一言を告げなければならなかった。
「そのマグカップの詳細を俺は知らないけれど、君の話から察するにマグカップの移し替えは行なっていないようだね? そして、そこの洗い終わった食器の中に、そのマグカップは入っていないかい?」
 怪訝そうな表情をした彼女の顔色が、みるみる変わっていく。
「え! なんで?」

 やはり、予想通りだった。なるべく彼女を傷つけないよう私は言葉を選び、語り掛けるように彼女に「残酷な真実」を告げた。
「君は、仕事で珈琲をお客さんに提供していた。その時の癖なんだろうと思う。これは『事故』であって、『事件』ではない。君が、その珈琲を捨てたんだ」
 彼女は納得いかない風で、私に詰め寄る。
「今日の珈琲は、私のお気に入りで高価なものだわ。それを自分で捨てるなんて、あり得ない!」
 彼女の反応も想定内だ。
「君は考え事をしながら、珈琲を淹れていたのではないかな? 自分が淹れた珈琲を無意識的な行動で、『流し』に捨ててしまったんだよ。君は、喫茶店でお客さんがスマホの操作に夢中で、口すら付けていない高級珈琲を残して帰ったら、自分で飲むかい? 飲まないだろう。そのまま『流し』に捨てるはずだ。つまり、君は私と違って『珈琲を流しに捨てる』行為に、それほど抵抗を感じないということだ。『珈琲が消えた』という固定観念を捨てれば、すぐに真実へと行き当たるものだよ。この場合は、最初から『マグカップ』を探せば良かったんだ。マグカップと珈琲をセットで考えてたから、見つからなかったんだろうね」

 がっくりと項垂(うなだ)れながら、蒼白な顔のまま彼女は新しい珈琲を淹れ始めた。私は、彼女が普段飲んでいる珈琲が一〇〇グラム買えるであろう五〇〇円玉を、そっとテーブルに置いて自室に戻った――。

【了】

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