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RKBアナウンスチーム大濠公園能楽堂朗読会

自分もこの会に行き、感想を書くことで演劇の仕事を3年ぶりに
再開することになったのは何かの偶然だろうか。

 コロナ禍と自分自身のダウンサイジング化が重なった今日この頃、
SDGsという社会の目標ができていて、
この目標をどう期日までに実現させるか、世の中はうんうん考えてはいる
けれど、肝心の本質を知ることについては
後回しになっている、というか何もかもが遅れている自分は世の中に
どう対処すればいいのかわからない。

 そういうもやもや感を感じつつ、高校時代の何かを探して
うろうろしていた時に迷い込み、助六寿司だけもらって
肝心の中身を見ることなく逃げるように帰ってしまった以来の
大濠公園能楽堂へ行き、中に入って椅子に座る。

 会の一番最初、「へいわってなんだろう」というお話を聞いて、
わたしはこの会の意図がわかった。
そして、自分の考えた「仮説」を実証するためにもう少しほかのお話も
聞いてみる。

 「おによりつよいおよめさん」
 これは人間に限定しがちな「ジェンダー」(要は役割論)を
わかりやすく説明している。
おにはおなかがすくと人里に出て住む人を「脅して」食べ物を
強奪することがある意味役目だとしたら、その見返りにおには住民を
助けなきゃいけないよね、そこはどうだったんだろう、
というところにこれまた「女性は炊事洗濯掃除に育児が役割」から
弾き飛ばされておにの棲み処に行かざるを得なかった女の子、
その一人と一匹がともに生活を始めて、お互いの良いところと悪いところ、得手不得手を理解して、その決定に沿った役割分担をすると、うまくいくのにどうして人間同士になるとできなくなるのだろう。

 「きつねの窓」
 山奥にできた異界に迷い込まされた人間のお話。
「染物屋」というけれど、白い布や革に色を施すのではなく、
指に色を施して、というかそこにいない人をそこにいるかのように見せる「魔法」を施すきつねと出会う。
 その魔法をかけて何を見たかといえば何らかの理由でいなくなった
「母親」という存在。
さらに言うと、人間は動物と異なり、手を洗わなくてはいけないから
一回ごとに魔法を掛け直さなくてはいけない、けれども魔法へのアクセスは閉じてしまった。
 本当のホラーはこういう風に「怖さ」を全面的に出さず、
人間の生業が猟師で、きつねはその人間・猟師に母親を殺された、
その記憶を思い出させるために母親を殺した道具である鉄砲を差し出すように仕向けて大切な人を失った苦しみを(以下略。

「おこりじぞう」
 私たちは「戦争の持つ3つの側面」について
もっと考察を深めたほうがよい。

 勝てば官軍(すべての負債を未来永劫負け側に押し付け、すべての利益を
未来永劫独占できる)、負ければ賊軍(すべての負債を未来永劫押し付け
られ、すべての利益を未来永劫奪われる)という
「経済的側面」と「領土的側面」があり、都合の悪い人間だけを
厄介な場所や状況に送り込んで戦死させる<
生活に差しさわりのある程度にまで精神に障害を加えて、
十分にケアもさせず邪魔者扱いする<
生活に差しさわりのある程度にまで身体に障害を加え、
手厚い保護を受ける<無傷で済むように配置させる
というように、「新しい社会」に都合の良い人間と、
「新しい社会」において都合の悪い人間を選別するという
「民族・人間的」側面がある。

 その側面を期せずして知ってしまったお地蔵さんはそりゃ怒るよね、
としか言いようがない。

 「みっつのねがいごと」
 「貧困という現実」から脱出したい、というモチベーションを
コストパフォーマンスが高いやり方で
実現したい、実現できる環境に自分を持って行けたときに何を成して、
何を成さなかったのか、というお話。

 結局、人間は目の前にある「おなかがすいた」や
「おいしいものを食べたい」というモチベーションを
まずは満たして、それ以外のモチベーションに当たることの積み重ねが
幸せに死んでいくためにはものすごく大事なやり方なのかもしれない。

「せかいいちうつくしいぼくの村」・「せかいいちうつくしい村へかえる」
 これはふたつでひとつの合わせ鏡の物語。

 人はそれぞれ「居場所」というものがあり、その居場所でないと
上手に生きられない。
その村にふたりの少年がいる、ひとりの少年は笛がうまい父のもとで
笛という技量を身に着けてサーカスという「居場所」に入り村を離れるが、歳を取ることによって何かを失ってしまう。
 もう一人の少年は果樹という「村の持つ財産」を守ることが私の居場所、ということがわかっていたから、そこにとどまった、しかし戦争は
この「村の財産」を破壊していた。
 そして、おたがいが残った何かをそれぞれ携えて新しい「居場所」を
作り出そうと歩み始める。

 SDGs、って「とりのこされないひとをなくす」ってよく言うけれど、
いったい「とりのこされているひと」ってどういう人を指すのだろう?

 「競い合う」ことでその人の持つ「大事な事柄」をよくできなかった人や「競い合う」ということ自体にあっていない、適性のない人を
「取り残さない」ということなのか?

 そして「なくす」という言葉も気持ち悪い。
人間は生きている以上「皆無」ということは有り得ない、ありえないということは別の価値基準を「根絶すべき・皆無にするべき」存在として
設定、排除する。

 SDGs的に言うと「取り残すべき人の基準を変える」と
いいかえられるかもしれない。
さらに、次の展開としての「SDGsを金儲けの手段にする・
お金を回す基準にする」になると、「SDGsにそぐわない別の価値基準」を
つるし上げて虐め倒そうという魂胆が生まれる。

 この疑問を感じたところで二回目の「へいわってなんだろう」の
一番最後、「個々人が生きていてよかった」と思えることが平和だ、という言葉が理解できる。

 今回の朗読会は「平和であることが持続可能な社会である」ということを小学生の子供たちにもわかりやすく「聞かせるように」お話の選定や構成を練りに練って聞き手の耳に届けた。
 
 そして「へいわってなんだろう」の持つ言葉の聞こえ方の違いについて、わたしたちは深く掘り下げ続けなければいけないのかもしれない。

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