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人はどうして生きているのだろう、どうして死んでいくのだろう。

 なんかね、送られる側の故人が「いかに自身の命を粗末に扱ったか」が
よくわかるようにできている、としか言いようがない。
 そして、送る側も「故人をいかに粗末に扱ってきたか、だから若くして
向こう側の世界に行っちゃった、やり残したことを大量に抱えて」という
事態が起こっちゃった。
 この起こっちゃった自体に対して慎みがあれば、こんな馬鹿な真似は
しないだろうに。 

 この動画のように長崎の精霊流しは「故人が何を成して、何を成さなかったか、どういう人間関係を作り、どういう人間関係を作らなかったか、
そして故人はどういう風に死んでいったのか」が運ばれていく精霊流しの
船に意匠として載せられ、付き従う勢子の数や花火爆竹の激しさで可視化
される、という生きてきた「通信簿」を大勢の見手に公開する、という
心理的にも経済的にもきついお祭り。

 町内会や葬儀屋が作る「お舫船」のほうがそういう「生きざま死にざま」というどぎつさを感じずに済むけれど、若くして予期せぬ事故や病を得て
その当人は命を粗末にすることなく他人よりも早い寿命を生き切った故人の
船は「わたしは生きた」と言わんばかりに生きざま死にざまを濃縮した
意匠を盛り込みまくっている。

 その最たる例がこれ。

 白血病によって18歳で亡くなってしまった女の子を送るための船。
「わたしは生きた」と「どうして死ななきゃいけないの」という感情が
ないまぜになって、この船が出た数年後も私の心をチクチクさせる。
 そして、この船を出した遺族や同級生たちも折に触れて様々な思い出を
こういう船に乗せて語り続けることができて、それはそれでよかった。

 だからこそ、他者の往来を邪魔したらいけないのに、
何がそうさせるのか、やらかしてしまう方が多い、
よその恥はかき捨て、じゃないんだぞ。

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