桶狭間の戦いの考察7
桶狭間の戦いで今川義元が何故負けたのかを考察する記事、第7回。
今回、いよいよ義元が登場します。
このシリーズの主役なんですけど。長らくお待たせいたしました。
■今川家家督相続と「花倉の乱」
当主の氏輝、そして後継者筆頭の彦五郎が同日に相次いで亡くなるという事件が起こった今川家は、急ぎ後継者を決めなくてはならなくなりました。
東の小田原北条氏とは同盟関係にありましたが、北方の甲斐武田氏とは長い間敵対関係にありました。
西も松平清康が亡くなったとはいえ、松平勢は未だ健在。さらに西の尾張には織田信秀がいて、岡崎を乗っ取った松平信定に妹を娶らせています。
うかうかしていたら、外敵だけでなく領内の国人衆にも動揺が広がり、内乱になる可能性があります。
今川家の重臣たちは氏親正室の寿桂尼の子で、四男の栴岳承芳に跡目を継がせるよう働きかけます。正室の子供は側室の子供よりも継承権が高かったのです。
氏輝、彦五郎がいたため、栴岳承芳は4歳で仏門に入ると、駿河の善得寺、京都の建仁寺で修行を積み、氏輝が亡くなる直前に京都から駿河に呼び戻されます。
おそらく氏輝は親族衆で重要拠点を固めたかったのでしょう。また甲斐への侵攻も計画していたようで、弟の栴岳承芳を一門衆として大将に立てようとしていたようです。
栴岳承芳は重臣たちの言葉に従って還俗。時の将軍足利義晴の偏諱を賜り、義元と名乗ります。
義元の最初の仕事、それは甲斐武田氏との和睦でした。
氏親存命の頃から武田氏と争っていましたが、甲斐は山がちで平地が少なく、水害も多い土地なので、争って領地を得るよりも和睦の方が利があると判断したのでしょう。
しかし、これは遠江・甲斐で外交・軍事を一手に担ってきた有力被官の福島氏からの反発にあいます。
福島氏は氏親三男で縁戚の玄広恵探を担いで久能城で挙兵。これに同調した国人衆(特に遠江が多かった)もいて、避けたかったはずの内乱が勃発してしまいます。
玄広恵探も出家の身ですが、こちらは領国内の花倉にいて、正室の子とはいえ、京都から戻ってきた弟に家督を継承されるのは面白くなかったでしょうし、福島氏もこれを機会に今川家中での勢力を強めようとした思惑が一致した反乱でした。
しかし、この内乱は思いのほか早く鎮圧されます。
まず初戦、久能城で挙兵した恵探派は今川館を襲撃しますが、館の守りが堅く失敗。
恵探は福島氏とともに花倉城に立て籠りますが、義元は太原雪斎、岡部親綱の奮闘、さらに小田原北条氏の援護を受けて恵探派の城を次々と落とし、ついには花倉城を包囲して総攻撃をかけ、恵探を自害に追い込みます。
福島正成は逃亡の末、甲斐の武田信虎に捕えられて殺害。
久能城の挙兵から花倉城落城までわずか15日。
この花倉の乱が義元の初陣なので、今川当主としては最高の船出になったでしょう。
戦国乱世へ第一歩を踏み出した義元ですが、この後、大きな失敗に見舞われます。
そしてこの若き日の失敗が、義元を強かな武将へと作り上げる糧となるのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?