見出し画像

桶狭間の戦いの考察4

今川義元が何故桶狭間で負けたのかを考察する記事、第4回目。

今回は応仁の乱以降の今川氏の動きを中心にします。

■応仁の乱で当主が討死した今川氏

斯波氏の家督争いである武衛騒動から畠山氏、さらには将軍家の後嗣問題にまで発展した室町幕府の権力闘争は、ついには全国を二分する「応仁の乱」を勃発させます。(1467年)

東軍、西軍に各勢力がつく形になり、今川氏は東軍側につきます。(ちなみに斯波氏は西軍)

当時の当主今川義忠は、この機に乗じて西軍側の斯波氏から遠江を奪おうと画策します。遠江守護を斯波氏に奪われて以降、遠江奪還は悲願でした。

不利を悟ったのか遠江の守護代甲斐氏が東軍に寝返りましたが、義忠には協力する気はなく、斯波氏側の遠江国人の城を攻撃します。

兵糧問題でこじれたという話がありますが、これは立場を正当化するための言い掛かりでしょう。

そして、義忠に反発した遠江の国人一揆により、義忠が討死します。(1476年)

これは今川氏には痛恨の出来事でした。

当時、将軍家は東西どちらにつくか立場を明確にしていませんでしたが、将軍旗を東軍側に預けています。

その東軍の、しかも味方同士の争いで義忠が死んだのです。この行動は東軍しいては将軍家への反逆と捉えられても仕方がありませんでした。

しかも嫡男の龍王丸はわずかに4歳。これを機会に関東管領の上杉氏、伊豆に館を構える堀越公方が駿河への影響力を強めようと、血縁の小鹿範満に跡目を継がせるべく、内乱が発生。

今川潰しも考えた幕府でしたが、関東管領の勢力が駿河にまで及ぶことを懸念したのか、龍王丸の母の弟である伊勢宗瑞(後の北条早雲)を派遣してこの騒動を調停させます。

事実、上杉氏はこれを機会に龍王丸殺害を計画していましたから、今川氏はかなり危なかったといえます。

調停の結果、家督は龍王丸が継ぎ、成人するまでは小鹿範満が家督を代行することなります。

元服までとはいったものの、一度権力を掴んだ範満が素直に家督を渡すはずもなく、龍王丸が15歳になった1487年に範満は龍王丸への圧力を強め、それに対抗するため宗瑞に再び駿河下向を依頼。(宗瑞は調停後、京都に戻っていました)

そして駿河の国人衆を味方につけた宗瑞が小鹿範満とその弟を襲撃して自害に追い込み、ようやく龍王丸は今川氏親と名乗りを改めて今川氏家督を相続します。

この氏親が、今川氏の悲願ともいえる遠江の奪取に成功します。

氏親・宗瑞という当代の名将2人ですから、負ける要素は少ないですよね。

しかし宗瑞も伊豆・相模の切り取りがありましたから、遠江にだけ集中できません。侵攻開始が1494年。完全支配に至るのは1517年になります。足掛け13年もの年月がかかったわけです。

その間にも、堀越公方の内紛に乗じて伊豆を切り取ったり、堀越公方の足利茶々丸を殺害したり(将軍生母を殺害したので成敗した)、甲斐武田氏と争ったり、宗瑞が小田原を奪取したり、相模に出兵したり、遠江で勝ち続けて調子に乗って三河まで侵攻したら松平長親に負けたり、色々ありました。

なんか宗瑞の事績ばかりですね。

これを見ると氏親は宗瑞に好きに動かれているように見えますが、逆に言えば伊勢宗瑞という稀有な驍将を使いきることができる将であったとも言えます。

氏親自身も駿河の領国経営や周辺勢力への対応もありますし、遠江を渡すまいと、斯波氏の抵抗も頑強でしたからね。

氏親が遠江を奪取する以前から室町幕府の権威は失墜していますので(だから遠江侵攻ができたわけなんですが)、遠江の完全奪取を成し遂げた翌年には同地で検地を実行しています。

つまり租税の内容を改めたのです。

これは幕府に仕える守護大名から、幕府から独立して領国経営する戦国大名へと変貌を遂げたことになります。

駿河・遠江の支配を完了した氏親。ちなみに伊豆・相模は宗瑞が押さえているので東の守りは万全。(独立されましたが……)

北方の甲斐武田氏とはかなり険悪な関係ですが、武田一族の内紛と甲斐国人の穴山氏を取り込み備えにしています。(この時、武田氏も内紛で大変な時期)

そして今川氏の目は更に西に向けられますが、そこに待ったをかける存在がありました。

三河国松平郷に祖をもつ松平氏です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?