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桶狭間の戦いの考察8

今川義元が桶狭間の戦いで何故破れたのかを考察する記事、第8回。

今回は若き日の義元の事績を。

■相続直後に大失敗の義元

後に「海道一の弓取り」と称賛された今川義元ですが、若き日は失敗に継ぐ失敗の日々でした。

わずか半月で「花倉の乱」を収め、華々しく戦国の世に登場した義元でしたが、まだ家中の動揺は収まっていませんでした。

そこで外征よりも国内を優先させようと、長年抗争を続けてきた甲斐武田氏と本格的に和睦を行い、花倉の乱の翌年1537年に武田信虎の娘を正室に迎えます。(武田氏は新羅三郎義光を祖とする同じ清和源氏なので家格は釣り合う)

これに激怒した将がいました。

小田原の北条氏綱です。

小田原北条氏は氏綱の父、宗瑞の時代から、関東支配者である山内・扇谷上杉家と領地を争って攻防を繰り返しており、在地の豪族たちからも「突然現れた侵略者」と蛇蝎の如く嫌われていました。(伊勢から鎌倉由来の北条に改姓した理由がここにあります)

そして武蔵国の国主である扇谷上杉家と武田は同盟関係にありました。(嫡男晴信の最初の正室は扇谷上杉家の娘)

花倉の乱では、内乱に乗じて武田勢が駿河に乱入するのを防ぐため、便宜上でも武田氏との和睦が必要であり、北条氏綱もそれは理解していたと思われます。だから氏綱は義元を援護しました。

しかし、婚姻となれば話が違います。

武田と婚姻関係になるということは、今川氏も扇谷上杉側、ひいては反北条勢力に入ることを意味します。武蔵、甲斐、駿河の北条氏包囲網が完成してしまうのです。

小田原北条氏は、その成り立ちから考えて、今川にとっては属国的な感覚だったのかもしれません。

しかし、宗瑞亡き後、氏綱も苦労を重ねながら伊豆・相模国を統治して、関東にその勢力基盤を築きつつありました。北条氏家中も今川とは対等の関係と思っていましたが、今川側はいつまでも被官扱い。

そこにきての武田との婚姻です。北条家中の不満は一気に爆発しました。

「いつまでも我らが今川の下と思うな!」

武田との婚姻を同盟の手切れとみた北条勢が伊豆から駿河へ雪崩れ込み、富士川以東の地を征服します。

東からの侵略は義元にとっても寝耳に水でした。

この時は「花倉の乱」の影響で家中の動揺が収まっておらず、また北条氏の侵攻に呼応するかのように、遠江の堀越氏と井伊氏が蜂起。義元は西と東から挟撃される形になります。

遠江側はなんとか鎮圧できたものの、富士川以東は武田・上杉の援軍をもってしても北条勢を追い返すことができませんでした。

ついでに上杉氏はこの直後に当主が急死して、動揺した隙に本拠地の河越城を北条氏に落とされる始末。

たったひとつの婚姻で、領地の一部を失うという事態に発展したのです。

富士川以東を「海東の地」と呼ぶことから、これを「海東の乱」と呼びます。

これは義元にとって痛恨の出来事だったでしょう。

以降、義元の行動はかなり慎重になります。

そして今川氏の動揺を、西にいる「器用の仁」が見逃すがずもありません。

尾張から三河へ、織田信秀が動き出します。

国内の統制を図りつつ、西と東の脅威が続く日々。

そんな時、駿河の義元にある人物が訪れます。

その名は松平竹千代。

叔父松平信定に追放された竹千代が、少ない家臣を伴い義元に謁見を求めたのです。

その内容は、岡崎城奪還に力を貸してほしい、というものでした。

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