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命拾い

 4月19日の未明、二度目の心筋梗塞で救急搬送された。傘の先端で力強く心臓を押さえつけられているような痛みで、脂汗が出て救急車の中でも唸り続けた。普段毎分八十ほどある心拍数が四十まで落ち、意識はあるものの酸素飽和度も危険域まで下がった。

 運ばれたH病院で全裸にされ、陰毛をバリカンで剃られ、鼠蹊部からの緊急カテーテル手術を受けた。そして一時間後には体中に管とセンサーを付けられてICUのベッドに貼り付けられたのだった。

決して上半身を起こしてはならず、バカでかいオムツを履かされて、尿はカテーテル、そして大便はオムツの中にしろと言われた。そう言われてもできるわけがない。ICUを出るまでの五日間、ずっと便を我慢した。

7年前の入院と違い、今回は結構状況が深刻で、腎不全という持病がある為に、造影剤を入れながらのカテーテル治療は腎臓に決定的なダメージを与えてしまうことだった。

手術の前に救急車に同乗して来た妻と、隣町から夜明けに駆け付けた長男、そしてストレッチャーの上に仰向けに寝かせられた私の前で、担当医が「これで腎臓は潰れてしまいますが、やはり腎臓よりは命が大切ですよね。患者さんの命を救うために腎臓が駄目になってもよろしいですね?」と、最終決断を求めたことだった。

妻は蒼白。長男は困惑顔だった。

「はい。お願いします」

 切れ切れの息で結局私がそう返事をして手術が開始されたのだった。そしてそれは一時間で終わった。

 ICUにいる間一番辛かったのは、寝返りさえ打てないことから腰が堪らなく痛くなったことと、造影剤を体内から洗い流すためにベッドごと透析室へ運ばれ、鼠蹊部から3時間に及ぶ人工透析を2回受けたことだ。

 入院時4.1だったクレアチニンという腎不全の度合いを示す数値が、術後は5.2まで上がった。しかし幸いにも心臓の方は速い回復力を見せてくれたので、担当医のE先生は上昇したクレアチニン値を如何に下げるかに腐心してくれたのである。

 一般病棟に移り、最初は50m、翌日は100m、その次は200mと歩行のリハビリを受け、入院十日目にしてやっと院内の自由歩行とシャワーを許されるようになり、クレアチニンも、4.8まで戻った。そして入院後ちょうど二週間目の5月3日に、私は退院することができた。

 あの手術から一か月が経過したが、体力は未だ回復はしていない。身体に力が入らず、すぐに疲れてしまう。高いクレアチニン値のせいもあるが、特にICUでの寝たきりの状態が体全体のエネルギーを消耗してしまったようだ。徐々に体力をつけて行かなければと思っている。

  それにしても救急搬送されるのがあと一時間遅ければ、私はもうこの世にはいなかったのだと担当医が教えてくれた。命拾いという言葉通りに、今回私は無くしてもおかしくない命を再び拾ったのだと思う。それはひとえに現代医療と支えてくれた医療従事者の皆さん、そして家族のお陰なのだ。

 ところで、無事に退院できたからこその笑い話になるが、長男、次男、長女の三人で作っているLINEのグループ会話で、手術中に私の葬儀の打ち合わせが着々と進んでいたのだという。後日長男の嫁が申し訳なさそうに教えてくれたところによると、「ママが最近ベルコの会員になったから葬儀は割引が利くみたいだよ」と娘が言い、「じゃあ、葬儀場は西のベルコかな?」と長男。そのメッセージを見たアメリカにいる次男が「とにかく危篤状態になったらすぐに電話して。飛行機の手配をするから」などなど。

 随分と親思いの子供達である。

  連休明け、すぐに仕事を再開したが、やはりかなりきつい。久々に生徒たちの顔を見るのは嬉しいのだが、一日の終わりにはかなり消耗しているのを感じる。

「先生はなんで心臓の病気になったの?」

 小学四年生のグループレッスンで一人の男の子が聞いてきたので、ホワイトボードに心臓の絵を描き、血管が詰まったこと、その詰まりを取るために足の付け根に穴をあけて管を通し、心臓の血管までそれを伸ばして詰まりを取ったことなどを事細かく説明し、「肉や油っぽい物ばかり食べてるとそうなってしまうんだよ」と説明した。

 子供たちは真っ青になった。

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