雨の音が私を連れていく
変わってしまう関係性ならば初めから築かなければいいのに。永遠なんて存在しないと解っているはずなのにどうしてその時だけはもしかしたらあるかもしれないと期待してしまうのだろう。理性を上回る何かの力が働いて結果的にそれで傷つくのであるなら何のためにそんな力が備わっているというのだろう。一つ一つは時計の針が秒を刻むように微量な変化だから瞬間的には気付かないけれど、ふと空を見上げたときに青から紺に移り変わっているのがわかるのだ。せめて痛みを感じないほどの鈍感さが同時に備わっていればいいのに綺麗なまでに欠落している。それともそんなことは私だけで他の人は当然のように永遠を享受するものなのだろうか?
私を救うもの
私は雨量をコントロールできる。凪いだ海のように穏やかな心には小雨の軽さが丁度いい。どうしようもなく絶望した心は分厚い雨のカーテンを巡らせることで守ることができる。現実世界の天気は必ずしも求めるようには変化しない。晴天の下に渇いた心が曝されてサラサラと崩れていくことすら有り得てしまう。だから私は飛び込むのだ、25分間の雨の旅へ。
虚構の世界で生きるために
正当なルートという意味であれば根本的に痛みの原因を治療することだと誰もが述べるだろう。いつまでも現実に足をつけずに破滅的な妄想を繰り広げたところで何が救われるわけでもない。でももう私はふわふわと漂いながら痛みから逃れられればそれでいいのだ。考えることもぶつかることももう懲り懲りだ。ただひたすら痛みをごまかす麻酔を打ち続けて美しい世界だけに陶酔していたいのだ。目の前の現実をシャットアウトして脳裏に流れる遠い世界の映像だけを眺めていたいのだ。死ぬまで切れることのない麻酔、麻薬、そして雨の音。それだけあれば生きていけて、それがないと生きてはいけない。虚構でも貫き通せば現実になる。
閉ざされた部屋の中で
今この瞬間、あの窓を破ってここから飛び出すことができればどれだけいいだろう。星も月もない厚い雲に覆われたこんな夜ならば、闇に溶けて消えてしまえる気がする。