〔余白の創造性〕自分について

余白の創造性連載第三十九回目のテーマは

”自分について”

皆さんは”自分”という存在の認識はどのようなものでしょうか。

また、自分を”自分”として存在させているものはなんでしょう。

鏡を覗き込んだときに映るその姿は本当に”自分”なのでしょうか。
写真の中におさめられたその姿も”自分”を正確に捉えているものなのでしょうか。

このように視覚的に”自分”というものを認識しようとする場合、それは第三者の視点からになります。

僕は普段それなりにゲームをするのですが、
この視覚的に俯瞰から”自分”を認識することは、ゲームでいうところの三人称視点というものです。
自分の操作しているキャラクターを頭上から見下ろして、その周囲も少し見えているような視点です。
また、普段の僕らの視界は、ゲームでいう一人称視点というものです。
これは自分自身の姿は全く見えず、肉体の内側から外側を見ている状態。
三人称視点では、普段の僕らの視点では見えない自分自身の肉体の全体像が見えています。
つまり、僕らがどのように存在しているのかはあくまでも三人称視点によって認識されているということでしょうか。
それでは、ここで他者から視覚で捉えられているその姿が真に”自分”という証明はどこにあるのでしょうか。

ここで考えたいことは”自分”という存在の証明は目に見える肉体なのか、あるいは心というか自分の中にある意識なのかどうかです。

非科学的な言い方をするならば、
僕らはあくまでも肉体が全てのはじまりで、皮膚や骨など肉体を構成する要素と同じように魂や心と呼ばれる器官も出来上がるものなのか、
あるいは、僕らの本質は魂や心で、そういうものが肉体に宿ることで視覚的に認識できる形で存在を得るのか。
つまり僕らは目には見えないけれど、魂というものとしてそもそも存在しているということです。
もし後者であった場合、誰に知覚されることはなくとも”自分”という意識は存在していて、その証明は自分自身というわけです。
それならばどうしてそこから肉体に宿り他者から視覚的に存在を知覚される必要があるのでしょうか。

肉体と魂のどちらが先なのかということに関しては、鶏が先か卵が先か理論と同じように答えの出ない問題だと思います。

しかし、魂が肉体を得ることは他者に存在を認識してもらいたい、他者の存在を認識したいという欲求のように思います。

僕らはきっと、誰かに知って欲しくて、そして誰かを知りたいのでしょう。

魂や心を満たすものは感情です。
それは喜怒哀楽すべてが魂や心を刺激し、揺らし、満たす。
それによって自分自身の心の場所を確認するのです。
はっきりとそれがどこにあるのか確認することで”自分”という存在を感じ、安心するのです。

感情というものは、自分の内側に勝手に湧き上がってくるものではなく、
外側からの刺激に対しての反応です。
つまり、僕らは一人きりでは心の場所を知ることはできないのです。

僕らの存在を証明するものは、
肉体も魂もどちらも他者との”つながり”ではないでしょうか。

僕らはつながり、互いの存在を証明し合って生きているのかもしれません。


今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

”自分”という存在の認識についてはずっと考えていたことでした。
しかし、結局は自分のなかに探していても何となく答えは出ず、
他者との”繋がり”こそ存在を証明してくれるものではないかという考えに行き着きました。
これが正しい、正しくないということではなく、あくまでも余白の創造性というわけです。

来週のテーマは

”季節はずれというもの”

それではまた来週の金曜日に。

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