[余白の創造性]大人になること
余白の創造性第十七回目の今回のテーマは
“大人になること”
皆さんも一度は“大人になった”と感じたことがあると思います。
ビールを美味しく飲めるようになったとき。
ちょっと高いチョコレートを買ったとき。
照明の暗いレストランで食事をしたとき。
階段を登って息があがってしまったとき。
焼肉でカルビよりもハラミを好むようになったとき。
そんな風に大人になったと感じる瞬間ってありますよね。
国によって違いますが、
日本では20歳(次の4月から18歳になるみたいです)になると成人を迎えて、大人として認められますね。
少しだけ自由になって、そして責任が生まれます。
どちらかと言うと“大人にさせられる”感覚でしょうか。
僕も正直、20歳を迎えたときに大人としての自覚を持ったとは言えないです。
大人になるって何でしょうね。
子どもと大人の境界線てどこにあるのでしょうか。
そもそも、自分が子どもの頃に自らが子どもだと、
何も分からない子どもだとは思っていなかったですよね。
子どもなりに世界を知ろうとしていたし、
自分の意見もあったし、
それなりに自分で出来ることもあると思っていましたよね。
大人との違いなんてそれほど気にしていなかったように思います。
いつから大人になって、
いつから子どもを子どもと認識するようになるのでしょうか。
僕は、大人になることは“気付くこと”だと思います。
子どもって自らの欲求に忠実で、欲張りで、
好き嫌いがはっきりしていて、
生きることに素直で、愚直なんですよね。
そういう子どもの姿を見て何だか懐かしさだったり、
羨ましさだったりを感じることも大人になるってことではないでしょうか。
自分がいつのまにか忘れてしまっていた、
心の奥底にしまい込んでしまっていた、
そういう“子どもっぽさ”に気付くことが大人になることなのかもしれません。
そんな気付きを得るときってなんとなく窮屈さを感じてるときだと思うんです。
大人になって自由を得たはずだけれど、
いつのまにか身動きが取れなくなってしまっていることありますよね。
そんなときに子どもの自由さを羨むのでしょう。
子どもの頃は大人になれば自由を得られると思っていて、
大人になったら子どもの頃は自由だったと思うのです。
僕らはいつだって自由に憧れているのかもしれません。
子どもは自由で、窮屈で。
大人は自由で、窮屈で。
子どもは大人に憧れて。
大人は子どもを羨む。
そこに境界線はないのかもしれません。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
大人と子ども、皆んなが子どもを経験して大人を経験して、でもその二つってなんだか分からない。
なんとなくずっと寄り添っていくことなんでしょうね。
来週のテーマは“甘党と辛党“
では、また来週の金曜日に。
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