〔余白の創造性〕時間について

余白の創造性連載第三十四回目のテーマは

”時間について”

皆さんは時間というものをどのように認識しているでしょうか。

それは、日が昇って沈み、また昇ってくる。そのサイクルのことなのか。
地球の自転や公転の周期のことなのか。
そもそもの定義としては、時間という概念が生まれたのはこういった一定の周期によってでしょう。
しかし、これらは時間という概念を生み出すために始まったことではなく、もともとそこに存在していたもので、人類が勝手にそこに時間というものを見出しただけなのではないでしょうか。

地球が一周自転するのにかかる約二十四時間を一日とし、
太陽の周りを一周公転するのにかかるおおよそ三百六十五日を一年と決めたのは人類で、それらは僕らがそれを見出すよりもずっと前からその速度でそれを行っていたのです。
ちなみに、一年が十二ヶ月なのは月の周期が約三十日で一年の日数を割ったためだそうです。
このように人類が時間という概念をそこに見出しただけで、最初から決まっていたわけではないでしょう。

その他にも時間というモノが生まれた由来などは様々あると思いますが、このコラムは余白の創造性を考えるものですから、そういった定義的な部分に触れるのは上記の内容くらいで十分でしょう。

ここからは僕らがぼんやりと認識している時間というものを考えていきます。
まず、僕らはそれなりに時間というものを理解してはいますが、
実のところ、その正体を知っていると言いきれるのでしょうか。
学校の授業や仕事の区切りも、成人して大人として認められることも、
僕らの生活は常に時間によって区別され、支配されています。
しかし、果たして”時間”というものの存在を証明する手段はあるのでしょうか。

時間とはざっくり考えると、ある時点から、もう一つの時点までに経過している”線”の部分で、
何かが停止していることを時間が止まっていると表現するように、時間というのは流れていることで認識されるものと言えるでしょう。

時間の経過は僕らに大人になっていく、老いていく、衰えていく、
延いては死に向かっていくことを実感させるものです。
少し不思議なのは時間の経過が僕らに与える実感は比較的ネガティブなことが多いことです。
”成長”であったり、より良い状態になることは、時間の経過と比例しないということは僕らは十分に理解していますよね。
つまり、時間というものは、僕らとは直接的には関係の無いところに存在するといいますか、僕らに対して何の影響もないものなのかもしれません。
老いていくことなんかも、時間経過によってそれを実感することはあれど、実際に時間によって老いているわけではないですよね。
しかし、やはり多くの人は時間によって老い、衰え、死にゆくと考えます。
その意識というのは、死というものの絶対性によるものかもしれません。
死ぬことというのは、僕らが生まれた瞬間から人生において唯一確定している未来なんですよね。
その予定だけは何をしようとも変更できないもので、老いることや衰えることでその予定に確実に近付いていることを意識するわけです。
その自分自身で変えることの出来ない絶対的な存在は、僕らの関与することのできない時間という、これまた絶対的な存在によって理不尽に与えられていると考える方が納得がいくと言いますか、仕方の無いことだと諦められるのかもしれません。

時間というものが、過去から現在、未来という一つの方向に向かっていくように、
僕らもまた生から死へと向かって進んでいるのです。
過去は常に流れ現在になっていて、その現在もたえず過去になっていく。
未来というものは現在の段階ではまだ存在していなくて不確か。
果たして僕らの世界を支配している時間というものはどこに存在するのでしょうか。

このコラムの冒頭で、時間というのはある時点から、別の時点までに経過している”線”の部分ではないかと書きました。
それは、つまり僕らが過去を思い出として記憶すること、未来に予定を立てること、その瞬間に現在の自分から過去や未来に対して繋がる線が、その線が引かれたときに”時間”は意味を得て、ここに存在するのです。

結局のところ人生の行き着く先は一つです。
僕らの人生の意味はその結果ではなく、
どんな線を描いていくのか、どんな時間が流れるのかなのかもしれません。


今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回のテーマに関しては狭い一つの視点から見た時間の余白の創造性について考えました。
別の視点から見ればまた違った余白の広がったテーマだと思います。
それに関してはまた追々考えていきましょう。

来週のテーマは

”昔ながらというもの”

それではまた来週の金曜日に。

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