〔余白の創造性〕流れというもの
余白の創造性連載第二十七回目のテーマは
”流れというもの”
皆さんもこれまでにあらゆるものに”流れというもの”を感じたことがあると思います。
実際に目に見えるもの、見えないもの含めて”流れ”は僕達の生活の至るところに存在していますね。
空気の流れ、水の流れ、人の流れなど、
主に気体や液体、固体など物質がある地点から別の地点に移動することや、その様のことを”流れ”と言います。
また、時間も流れます。
時間は目には見えないものですが、一つの方向に向かって流れていることは確かです。
いや、実際にそれを証明することは困難なので本当にその方向に向かって流れているのか、本当に不可逆なのかどうかは定かではないと思います。
僕らは過去から現在、未来という順番で時間は流れていると考えていますが、
その時間軸というのも人間が定めたものであって、世界が本当にそのような流れを持っているのかは分かりません。
何にせよ太陽の位置や、周囲の景色の変化によって時間の流れも仮には可視化できていて、
僕らはそれを時間の流れとして捉えているわけです。
そんな目に見えない“時間”というものを捉えるうえで最も分かりやすいものが”老い”です。
むしろ’老い”があるからこそ時間の概念が生まれたのかもしれないですね。
時間の経過とともに老い、朽ちていく。
世界に存在している有機物ないし、生物は一様にこの流れ”朽ちる”という方向に向かって老化しながら進んでいきます。
もちろん時間の経過は直接僕らに’老い”を与えているものではありません。
僕は時間というもの自体が僕らに与える影響というのは全く無いと考えています。
あくまでも時間は生物が老いて、朽ちていくまでの指標みたいなもので、
実際にはその生物の細胞の消費や、外的要因によって’老い”が進んでいくわけで、
あくまでもその速度や、おおよそ生存できる期間を計るのが”時間”なのですはないでしょうか。
また、時間の進む速度は一定ですが、老いていく速度は一定ではないということも言えます。
”老い”が細胞の消費や、外的要因によるものであるならば、その分量によって”老い”の速度は変わるわけです。
この上で、一つ面白い説が思い浮かんだのですが、
地球上の全ての生物の寿命は全く同じで、
例えば全ての生物の寿命を五十年とします。
時間の流れは一定なので五十年経過するまでにかかる時間はもちろん一緒です。
しかし、生物ごとに同じ時間内での細胞の消費の量や速度が違ったり、様々な外的要因によって、
それぞれに五十年分老化するまでの速度が変わり、
寿命に個体差が生まれるのではないかという仮説です。
つまり、十年の時間経過で五十年分老化する生物がいて、
はたまた百年で五十年分老化する生物もいるがゆえに、寿命がそれぞれ違うということです。
さて、ここで’流れというもの”の話に戻ります。
ここまでで言いたかったことは、
”流れ”には、不変なものと可変なものがあるということです。
僕らは常に不変な’流れ”のなかで生きていて、それは僕らにはどうにもできないものです。
僕らが本当にあらがうべきものは変えられる’流れ”の方なんですよね。
実は”流れを変える”ということも聞き馴染みのある人もいると思います。
スポーツの試合なんかでよく使われるのですが、
自分のチームにとって”流れ”が良い、悪いという表現があります。
これも目に見えず、不確かなものではありますが、
何かしらスポーツをやっていた人ならばこの’流れ”については肌で感じた経験があると思います。
この’流れ’特に悪い流れは、選手の交代などでけっこう変わるものなんですよね。
水が流れていれば石などでせき止め、空気の流れは窓を閉めたりして、人の流れは交通規制などで、
世界に存在する’流れというもの”は案外変えられるものも多いのです。
しかし、僕らはどういうわけか変えられる”流れ”よりも、
変えられない’流れ”にあらがおうとしてしまうのです。
変えられない’流れ”には身をまかせ、
変えられる”流れ”はどこに流されていくのかを選びながら進んでいけば良いのかもしれません。
より心地良い’流れ”に乗って生きていきたいものですね。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は僕らを取り巻く’流れ”というものの余白の創造性を考えてみました。
皆さんにとっては’流れ”とうものはどんなものでしょうか。
来週のテーマは
”一人称について”
それではまた来週の金曜日に。
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