〔余白の創造性〕共感というもの

余白の創造性連載第三十三回目のテーマは

”共感というもの”

共感とは何でしょうか。

辞書によると、
”他人の気持ちや感じ方に自分を同調させる資質や力のこと。他人の感情や経験を、あたかも自分自身のことのように考え、感じ、理解し、それと同調したり、共有したりすること”
とあります。

おおむね多くの人が”共感”という言葉をこう理解していると思います。


さて、なぜ今回このテーマを選んだのかと言いますと、
最近読んだソン・ウォンピョンさんの”アーモンド”の影響です。

この本は、生まれつき人よりも大脳辺縁系に位置するアーモンドのような形をした扁桃体と呼ばれる部分が小さく、その影響で感情の起伏がほとんどなく、身近で凄惨な事件が起きても悲しみも怒りも抱くことのない少年ユンジェが主人公のお話です。

詳しい説明は省略しますが、扁桃体は僕らの感情の処理や反応について重要な役割を果たしている部分です。

ユンジェのように扁桃体が小さい場合、外的事象に対して感情による反応が起こりにくいというわけです。

”共感”というものも、他人の感情を自分自身のことのように感じることですから、
そもそも自分自身の中に感情が存在していない場合、共感ということもできないのでしょう。

作中でも、度々彼が他人に対して共感を示せず、トラブルになったり気味悪がられたりするようなシーンが描かれていました。


しかし、なぜ他者に共感できないことでトラブルになったり、気味悪がられたりするのでしょうか。

おそらく、そこには”共感”するということが、他人の感情を”おもんばかる”こととほとんど同義だと認識してしまっていることと、
共感を”してもらうもの”と勘違いしてしまっているからだと思います。

共感というのはあくまでも”する”もので、
そして、共感は自動ではありません。
僕らは共感する対象を取捨選択しています。
それは他者にとっては些か残酷なことのように捉えられてしまうかもしれませんが、それは自らの心を保つ防衛本能のようなものでしょう。
全ての事象に対して自動で共感してしまったら、きっと僕らの心は耐えられません。


また、共感というのは自分自身の経験によるものですから、
同じ事象に対しても反応は人によって様々です。
例えば、道ばたで誰かが倒れていたとして、心配して声をかける人もいれば、通りすぎる人もいます。
もしかすると、その人を心配している家族のことを思い悲しみで涙を流す人もいるかもしれません。
それらの違いは、感情の経験もそうですが、倒れているその人を見て、どういう状況でどんな状態であるのかに関しても経験からくる予測が働いているからでしょう。
それによって感情の反応も、心配したり、大したことではないだろうと放っておいたり、涙を流したりと変化するのです。


共感に関して”アーモンド”のなかで印象的だったのが、
ユンジェがそのとき一緒に暮らしていた教授と呼ばれる男性の家に帰ったときに、教授はテレビを見ていてその画面には戦地で涙を流す子どもが映っていたのですが、教授は無表情で画面を見ていて、帰ってきたユンジェに笑顔でおかえりと言った描写です。
ユンジェは感情というものを自分のなかには存在していない代わりに状況に対して適切な反応を覚えることで、他者に共感しているように振る舞っていて、そのため教授のその行動が理解出来ませんでした。
これは僕らの日常でも目にする機会の多いことですよね。
僕らは遠くの悲しみにはひどく鈍感なのです。
それは物理的な距離だけではなく、心の繋がりの距離もです。
目の前に人が倒れていたとしても通り過ぎてしまうのは心の距離が遠いゆえですよね。もし、その人が知っている人だったなら通り過ぎることはないでしょう。

やはり”共感というもの”は、他者に対して行うことではありますが、とても自分本位なものなのではないでしょうか。
僕らは常に共感したいものを選び、共感しているわけです。
ストレス発散で泣きたくて感動的な映画を観る人もいますし、熱い興奮を味わうためにスポーツの試合を観戦する人だっています。
それは決して悪いわけではありませんが、そのように共感というものは自分自身の欲求を満たすために使われることだってあるということです。
それであるならば、どうして他者に共感できないということが気味の悪いこととなってしまうのでしょうか。
それは共感を選んでしていることとそれほど違わないことではないでしょうか。
むしろ、それこそ共感が”できない”ということに共感してあげられていないわけで、行動の結果はどちらも同じではないでしょうか。
ユンジェが共感することや感情を、事象に対しての反応のパターンを覚えることで行っていたことと、僕らが普段している共感はそれほど大差ないように思います。

正しく共感するという言葉が適切なのかは分かりませんが、
僕らには”正しく”共感するという共通認識のようなものが存在しているように思います。
それはきっと共感というものがそもそも他者との繋がりによるものだからでしょう。
僕らは他者との繋がりを作るときに、お互いにとって心地良いところであろう中心線みたいなものを引いているのです。
その線より先に干渉できる人は限られていて、
それこそ心の繋がりの距離によって限定されています。
また、その線を越えてしまわないように出来る限り近くまで歩み寄ることが、他者に対して”共感する”ということになってしまっています。

しかし、前述したように共感は自動ではありませんし、
それこそ自分本位な行動なのです。
はたして共感というものは他者のためにする行動なのでしょうか。
もちろん、自ら他者に共感し、それに対して行動をすることは疑いようもなく良い行いです。それは否定されるものではありません。
ただ、共感することを他者に強制することは、本来の”共感”というものの在り方とは違うのではないかと思うのです。

あくまでも、共感は”する”ものであって”してもらう”という認識はエゴと言えるでしょう。
僕らの共感は常に、対象を選んで行う行為ですが、そこに善し悪しはありません。
ただ、より多くの対象に共感できるということは、
より豊かな感情を持っているということではあるでしょう。

誰に、何に、どう共感するのかは自由で、
喜びを分かち合うことも、痛みを引き受けることも、
僕らは心の赴くままに行えば良いのではないでしょうか。
その先で、いつか自動で共感してしまう相手に、出来事に出会うのかもしれません。


今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回のテーマは最近読んだ本から影響を受けて選びました。
共感というものも大きく余白の広がったものでしたね。

来週のテーマは
”時間について”

それではまた来週の金曜日に。

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