〔余白の創造性〕季節外れというもの

余白の創造性連載第四十回目のテーマは

”季節外れというもの”

季節外れという言葉を使う機会は少し限られているかもしれません。
この言葉の性質上使用頻度が低いことは当然ではありますね。

季節外れというのは、
その季節にふさわしくないモノや事象を形容する言葉です。
例えば、季節外れの大雪、季節外れの猛暑日、季節外れの桜など。
これは他の季節の特徴とも言えるようなモノや事象が、別の季節に起こったこととも言えます。

逆に考えると大雪や猛暑日、桜のようにそれが季節を連想させるようなものでないと、別の季節に見られたとしても”季節外れ”とは表現しないですよね。
いつ雨が降ったとしても季節外れとは思いませんし、
道ばたにタンポポが咲いているのを見ても季節外れだとは感じません。

つまり、その事象はすでに特定の季節の特徴になっていて、その季節のモノという共通認識があるからこそ”季節外れ”と感じる訳です。
そして、それら”季節外れ”と形容されるモノには必ず”ふさわしい”季節があります。

寒い日に大雪が降ってくれば冬を感じ、四月に桜が咲けば春の訪れを感じます。
もちろん僕らは暦によっても季節を認識していますが、
それよりも、その季節にふさわしい事象によって季節の移り変わりを感じているのではないでしょうか。

日本には”四季折々”という言葉があります。
それぞれの季節に特色があり、
その季節の気候や食、景色、文化などは僕らの生活に浸透していて、
僕らは常に季節を感じながら生活をしているとも言えるほどでしょう。
春に桜が開花すればお花見を計画して、
夏には花火で風流を感じ、
木々が色付いてくると秋の訪れを、
雪が降ると冬を実感します。

しかし、それらも全てあくまでもその場所ではそういうものだからというのが正しい解釈だと思います。
桜が春以外の季節に咲く場所があるかもしれませんし、
それこそ夏の花火は日本特有のものと言えるでしょう。
雪が降らない場所の人は冬と雪のイメージが結びついていることもないかもしれません。

”季節外れ”という言葉を使うとき、そこには必ず僕ら個人の認識が介在していて、本当にそれが”季節外れ”なのかどうかの判断は別のところに委ねられているのです。

例えば、多くの場合こういうものだからという認識だったり、
そう認識している人が多数であるから、
あまりそこに改めて思考する意識はなくて、
ただそういうものとして受け入れているものでしょう。

そのように思考することなく受け入れているものは季節以外にも色々ありますが、季節のように僕らにはどうしようもなく受け入れなければならないものはいくつかあります。
それ故、その季節にふさわしいものを楽しむこと、
その季節にしか体験できないことを丁寧に感じ、掬い取るように生きることを選択しているのかもしれません。

だからこそ、僕らは”季節外れ”というものに少し感動や興奮を覚えるのかもしれません。
そのどうしようもなく受け入れていた事象が裏返る瞬間を、
新たな認識を得ることへの感動を、
”季節外れ”と形容しているのではないでしょうか。


今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回のテーマは何となく毎年何かしらに感じていることだなあと思い選びました。
毎年何に対してそう感じたのかは忘れてしまうのですが。

来週のテーマは、

”色彩について”

それではまた来週の金曜日に。


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