〔余白の創造性〕存在すること
余白の創造性連載第二十九回目のテーマは
”存在すること”
いまこのコラムを読んでくれている皆さんの多くは自らがこの世界に存在していることに何の疑問もなく生活していると思います。
僕自身も存在していることはごく当たり前のことで、特にそれに関して思考を巡らせたことはありませんでした。
しかし、改めて世界に”存在する”というのはどういうことでしょうか。
まず”存在すること”と”生命があること”は同義ではないです。
世界に存在するモノが必ずしも生き物というわけではないので。
”存在すること”がどういうことか僕なりに考えたことは、
それは”認識されること”ではないでしょうか。
自覚にしても他覚にしても”認識される”ということが存在の証明になるかもしれません。
では、その”認識される”ということはどういうことでしょう。
”認識される”モノというのは五感で捉えられるモノとも言えます。
五感で捉えられるモノに関しては容易にその存在を確かめることができますよね。
しかし、五感で捉えられないものはどうでしょうか。
それは”存在しない”ということになるのでしょうか。
例えば、運命の赤い糸というものを五感で捉えたことのある人は恐らくいないと思います。
それでもそう言う類いのモノ、引き寄せの法則や運命、はたまた幽霊なんかもそうかもしれません。
そういう五感で捉えられないものは存在しないのでしょうか?
”認識すること”が五感で捉えられることに限定されるならば、
それらは”存在しない”のでしょう。
しかし、五感で捉えられないモノを一つでも”存在しない”と定義した場合、
同じような性質を持ったもの全ての存在が否定されてしまい、
魂や愛だって”存在しない”ことになってしまいます。
もしそうならば世界はこんなにも複雑ではないでしょう。
少なくとも五感ではないにしても、
僕らはそれらを認識していないわけではないと思います。
どこで、どのように認識しているのかはっきりとは分からないけれど、
それらの存在は確かに感じています。
恐らくそれらは受容する器官が違うのかもしれません。
五感で、つまり肉体で捉えられるモノはその存在がはっきりとこの世界に証明されているもので、
五感では捉えられない、その存在が曖昧なモノは僕らの魂なのか心なのか、
これもまた存在を確かには証明出来ないモノで捉え、認識しているのではないでしょうか。
”存在すること”とは”認識されること”と言いましたが、
どのように認識されるのかはあまり関係ないのかもしれません。
というよりも、逆説的に”認識すれば存在させられる”とも言えるかもしれません。
それらはいつだって僕らの考えた通りに”存在する”もので、
それは、すでに存在していて僕らが認識するわけではなく、
僕らが認識することでその存在が生まれるのではないでしょうか。
本当は僕らは世界をどのようにでも”存在させられる”のかもしれません。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマはまさに全体が余白と言いますか、余白しかないようなものでした。
来週のテーマは
”冬の朝について”
それではまた来週の金曜日に。
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