〔余白の創造性〕一人称について

余白の創造性連載第二十八回目のテーマは、

”一人称について”

私、うち、僕、俺など一般的なものから、

方言なども合わせると一人称は約七十種類を越えるそうです。

大抵の人は一つないし、TPOに合わせて使い分けたとしても二、三個ほどでしょうか。

誰もが会話や文章の中で自らを指す代名詞として一人称を使うわけですが、いくつもある一人称のなかから現在使っているものはどのように選びましたか?

僕は物心ついた頃から”僕”を使っています。

正確には幼い頃は’ぼく”で、大人になるにつれて”僕”になっていったくらいの違いはあるかもしれません。

いずれにせよ、ずっと変わらず’僕”を使っています。

男の子のなかには、どこかのタイミングで”僕”から”俺”に変わっていく人も一定数いますし、

小さい頃は自分の名前やあだ名を一人称として使っていた人もいると思います。

ただ、名前やあだ名を使っていた人で、大人になっても変わらずそのまま使い続けている人は少ないでしょう。


さて、僕らはどうやって、何を基準に使用する一人称を選んでいるのでしょうか。

僕らはこの余白の創造性を考えることもなく、何となく一人称を使っています。

何となく使っている場合の多い一人称ですが、その役割は自らを指す言葉ですから、それは自らの性質を表すものでもあると思うのです。

本来は安易に選んで良いものではなかったのかもしれません。


一人称は主に性別や年齢によって種類があるわけですが、

基本的に一人称を分類するそれらの性質は肉体に起因するものです。

しかしながら、消費されていく肉体を僕らの本質だと考えることには疑問があります。

それならば肉体の性別や年齢に合わせて一人称を選ぶことは、

自らの性質を表す言葉としての役割を一人称が担うならば最善とは言えないのではないかと考えます。

僕らを僕らとして存在させているものは一体何でしょうか。

肉体なのか、それとも魂というか心というものなのか。

この話はこれ以上深掘りすると今回のテーマとは少し違う方向に進んでしまうので、僕らが何によって存在しているかについては次回のテーマとして考えていこうと思います。


いずれにせよ、一人称というのは相手に対して最初に自らの性質の一端を紹介する言葉です。

その言葉は丁寧に選び、使うほうが良いのではないでしょうか。

僕らの本質は年齢や性別などの肉体に起因するものなのか、

それともその内側に脈々と流れているものが僕らの輪郭を形作っているのか。

僕らはそれを一人称で表現できるのではないでしょうか。


今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。

これまで何気なく使ってきた一人称ですが、

思っていたよりもずっと丁寧に選ぶべきものだったように思います。

来週のテーマは、

”存在すること”

それではまた来週の金曜日に。


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