〔余白の創造性〕空気を読むこと

余白の創造性連載第三十六回目のテーマは、

”空気を読むこと”

皆さんはこれまでに様々な場面で空気を読んできたと思います。
僕も何度空気を読んできたのか分かりません。
そもそも”空気を読むこと”とは何でしょうか。
そして、僕らはなぜ空気を読むのでしょうか。

少し屁理屈じみたことを言えば空気は目に見えませんし、
読むものではなく吸うものです。
しかし、空気というのは確かに読めますよね。
その場所に漂っている雰囲気と言いますか、
そこに充満している感情や考えなんかが、
僕らが読むことの出来る”空気”というものでしょう。

その”読める空気”というものは、
人がたった一人でいる空間にももちろん充満しているとは思います。
しかし、それは読み手がいて初めて成立するといいますか、
誰かに読まれることで、その”読める空気”の存在が証明されるわけなので、実際には二人以上の人が同じ空間を共有することから”空気を読む”ということが始まるのです。

ここで面白いのが、この”読める空気”の解釈において、本を読むことと同じように読み手の読解力が大いに影響することです。
本を読むときと同じく、読み手の経験則や想像力などその技量によって同じ空気でも全く違う解釈をされてしまうのです。
また、その場の空気だけに限らずに、前後の文脈から予測するように、その”空気”を充満させている人物の前後の行動からその”空気”を読み解くことも可能だと思います。
このように読書と”空気を読むこと”で必要な能力というのは似たもののように感じます。
また、読解力を向上させるためには、とにかくたくさんの本や空気を読み込むしかないというのも共通していることでしょう。

その”読める空気”に関して、多くの人にとって読めて当たり前といえる空気、ある程度の共通認識や暗黙の了解みたいなモノも存在していて、
その空気を正しい読み方を出来なければ”空気の読めない人”という評価を受けてしまいます。
そして一度その評価を下されてしまったら払拭するのはなかなかに骨の折れることです。
そもそも”空気を読むこと”というのが曖昧なものということと、その空気も絶えず変化しているものなので、
たとえある場面において正しくというかその空間にいる他者と同じように読解できたとしても、それは読めない空気が読める空気に変化したからとも言えるわけで、空気を読めるようになったという評価に繋がりにくいわけです。
それは全く空気を読むことができない人というのは非常に稀で、
というのも、少なからず僕らは自分自身がその”空気”を発生させる側になることがあって、自分の書いた文章が全く理解できないという人がめずらしいように、自分の知っている空気は読めるものです。
つまり”空気が読めない人”というのも全く読めないわけではなく、
読めるジャンルが限定的ということなのでしょう。

本であれば自分の好きなジャンルだけ読んでいても特に問題は無いと思います。
それは本の書き手側も自らの書きたいことを書いて、書きたいように書かれた本を読み手側が自分の意思で選んで読むからです。

しかし、空気に関しては少し違って、書き手側は誰かに読んで欲しくてその空気を書いています。
誰かに読まれるように、
なるべく読みやすいように、
ときにはわざと少し難解に、
それでも気付いて欲しくて書きます。
それを読み手側はその空間に入ってしまったら半強制的に読まされるのです。
そのように勝手に読まされるわけですから、
誰だってこれまでに触れたことのないジャンルに遭遇することはあります。
そんなときに知らずとも読み解くことができるのが”空気を読める人”なのでしょう。
または好き嫌いの少ない人とも言えるかもしれません。

こんな風に考えてみたら、これからは少しだけ、ジャンルを広げて、いままでは誰かに読んで欲しいと叫んでいるように感じていた空気も、読み解いてみれば案外好きになれるかもしれないと思いますね。


今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回のテーマは、この前の”共感というもの”と似たようなことでしたが、また別の視点からの解釈になったのではないでしょうか。

来週のテーマは

”わびさびについて”

それではまた来週の金曜日に。

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