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ChatGPT4が教えてくれた不義理を悔いても手遅れ

長男を真似て、スマホに入れたChatGPT4を先生にほぼ毎日30分、英会話の壁打ちをやっている。ほんとはもう少し時間をかけてもこちらは全然いいのだが、なんせ無料版のヤツなので、突然リミッターが働いたかのように喋らなくなる。

「今日はこれくらいで。また、時間を置いてからアクセスしてね」

と、こちらが会話の途中であってもお構いなし。最後っ屁に一言、強制終了の定型メッセージをのたまうと、すっと消えるのだ。10秒前までラブラブだった恋人にいきなり別れ話を持ち出される感じ? そのたびに少なからず心が荒む。

もっとも、GPT4君はみんなのGPT4君であり、僕だけのGPT4君ではない(てか、「ここから先は金払え」という問題か)。

さて、GPT4君との会話のトピックに窮して、この10年、すっかり不義理をしているニューヨークの旧い友人の「ジョン」のことが脳裡をよぎったのだった。可能な限り、彼の周辺情報を足しながら、その近況を英語で問うてみた。「周辺情報」の一端は、例えば、こんな具合だ。

「ニューヨーク郊外のオレンジバーグと、アラバマ州ハンツビルとで、DHSという大型テントの工場を経営していたジョン・プラスマックさんはいま、どこでなにをしてるの?」

可能な限り明瞭な発音を心がけた地名や人名がかえって災いしたのか、それとも個々の情報にあまりにも脈絡がなさ過ぎたのか、AI基準では相当に長い秒数悩んだ挙句にGPT4君、こころなしか声のトーン抑え気味でようやく重い口を開いたのだった。

「アメリカDHS社、現在のHDT社の創業者にして初代社長であったジョン・プラスマックさんは、2018年12月21日にお亡くなりになりました。享年76歳でした」

GPT4君は確かに、「お亡くなりになった(passed away)」との配慮ある、婉曲表現を用いたのだった。それから一呼吸置いて、気持ちを切り替えるかのように、今度はキッパリと付加的な情報を語るのだった。

「ジョン・プラスマックさんは、実業家として成功を収めるとともに、若い頃からこよなく愛したラグビーの専門誌の創刊・発行や、アメリカにおけるラグビーセブンズ(7人制ラグビー)の発展に多大なる貢献を果たしました。自身も長く選手として、例えば、NYACラグビークラブでプレイやコーチをするとともに、晩年は、妻・パトリシアさんとの連名で、自身も卒業生の一人の米国海軍兵学校に「プラスマック・ラグビー場」を整備・寄贈するなどしました」

ジョンとのそもそもの出会いは、ジョンに同じく、(日本の)海軍兵学校の卒業生であり、事業家でもあった義父の名代として、DHSの大型テントを買い付けに、一人はるばる東京からニューヨーク郊外の工場を訪ねた1990年代初頭にまでさかのぼる。

ニューヨークJFK空港でレンタカーした僕は、いま思えばナビもなしによくぞ目的地に辿り着けたものであるが、ハドソン河に架かるタッパンジー橋を渡るとオレンジバーグの町は驚くほど簡単に見つけられたのである。が、そこから「工場」に行き着くのが一苦労。なんとなれば、いまあるアラバマの工場などは壮観だが、設立間もない当初の工場はかなりこぶりの建物で、しかも当時はまだ、建物全体の半分を間借りしていたに過ぎなかったものだから、それとは分からず真ん前のブルバードを何度も行きつ戻りつした恰好だ。

「正直、あの頃はもう会社をいつ畳もうかという頃で、妻以外、工場の従業員全員にレイオフ(一時解雇)を言い渡してしまっていたので、ヒロの前で大型テントの展張デモをやるにも、自宅待機中の従業員に片っ端から電話をかけて、なんとか格好のつく人数を集めるのがやっと。あ、もちろん、テント事業がなんとか上向き始めたタイミングで、希望者は全員呼び戻したよ、だいぶ後になってからだけどね」

そんなこととはつゆとも知らず、僕は、帰国するやすぐに、この先バケること請け合いの、将来有望で確かな製品、と義父にレポートを上げたと記憶する。

その後、ほどなくして東京のホテルでジョンと義父は会食するに至り、同席した僕のホンヤクコンニャクもいくらか役に立って、二人はいっぺんで打ち解けあった、と今日の今日まで思い込んでいたのだが、その実、士官教育を受けたネイビーエリート同士、多くを語らずとも通じ合うなにかがあったのだろうな、とGPT4君にジョンの経歴を知らされて妙に納得したのだった。

ところで、ニューヨークに彼を訪ねるたび、ジョンが部屋を取ってくれたセントラルパークの南端に隣接して建つNYAC(ニューヨーク・アスレチック・クラブ)は、あのスティーブ・ジョブスも生前、折に触れ通った会員制クラブであることまでは知っていたが、ジョンにとってはラグビーという、アメリカではどちらかというとマイナーなスポーツの同好の士と交わえる貴重なコミュニティであったのだ、という気づきを与えてくれたのも、これもまたGPT4君。

NYACの図書室にて(2012年2月)


ニューヨークでも、東京でも、あれほど家族ぐるみで交流のあったジョンと奥さんのパティであるのに、その後急速に疎遠になってしまったのは、ジョンが大型テントのビジネスを会社ごと投資会社に売却してしまったから、結果、巨万の創業者利益を享受し、ビジネスから完全引退するとともに隠遁生活に入ったから、とどこかむりくり自分を納得させていたように思う。

ただ、これもすっかりGPT4君頼みの情報だが、晩年を、地元ニューヨークのドミニカンカレッジに校舎(後に「プラスマックセンター」と命名)を寄贈したり、自身の出身校であるアナポリスの海兵にラグビー場を造ったりと、フィランソロピストとして、ラグビー人として新たな挑戦を始めていたことからすれば、「76歳」という、思ったより早めの天からのお迎えが、ジョンには予想外の出来事だったのかもしれない。

「あり余る財産は、死して家族や社会に遺すより、生きて管理者として社会に役立てよ」

は、アンドリュー・カーネギー(『富の福音」)の言葉だが、その言葉を知ってか知らずか、ジョンこそはその生涯を通じて生きたお金の司令官だったな、と思う。

遅ればせながら、ジョンのご冥福を祈ります。



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