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くずきりは有り難く、くず湯は忘れ難い

熱海駅から歩いてすぐの中村屋でくずきりをいただく。中村屋さんの客となるのはこれが3回目。もちろんくずきりの本場感というか、正統性は関西(奈良や京都)にあるとは思うが、ここのも京都の鍵善さんのに負けないくらい旨い。

熱海・中村屋のくずきり

これまでの人生、くずきりそのものがテーマの旅や店巡りはただの一度もしたことはないが、旅先や住まいの近くでぶらり入った店のお品書きに「くずきり」とあれば、注文するに躊躇はない。それほどに、僕はくずきりにくびっきりなのである。

ただ、問題はちゃんとしたくずきりを供するお店となると、関西以外、意外と少ないな、というのが個人的な感想。実際、「旨い!」と唸るくずきりに偶然出会えたのは、ニューヨーク(の対岸のニュージャージー)にかつてあったヤオハンの一角の和食レストラン「椿山荘」、夏の札幌の「六花亭」、それに直近ではこの熱海「中村屋」など片手の指で足りるほど。それくらいくずきりとちゃんと真面目に向き合う店は少ない。

中村屋はつい先月、熱海駅前の喧騒から逃がれるべく、できるだけ若い人が気後れしそうな、少しスカした店構えのお店として、消去法的に暖簾をくぐったばかり。看板メニューとしてのくずきりに出会えたことで、僕のなかで「甘味シュラン」の三つ星店に一発昇格を果たした恰好だ。

ただ、今日もひとり中村屋の客となり、つけだれの黒蜜まで飲み干してから、やおら考えた、僕はなぜかくもくずきりに目がないのか、と。

もちろん、あの半透明の、清涼感溢れるつるんとした食感はくずきりの魅力の中心だが、だからといってくずきりの専売特許ともいえない。とはいえ、例えば、ところてんにくずきりほどの思い入れはないし、春雨にいたってはむしろ嫌い(でも、似て非なるマロニーちゃんはわりと好き、の難しいお年頃)。

そんな馬鹿げたことに小学生のようにあれこれ思いを巡らせていた中村屋の昼下がり、ふと思い出したひとつの原風景があった。それは、子どもの頃、風邪を引くと決まって母が作ってくれたくず湯のこと。余所の家も似たり寄ったりだったことかと思うが、我が家ではその昔、切り傷には赤チン、腹痛にはイチジク浣腸と同じくらい、風邪にはくず湯と相場が決まっていたのである。

くず湯の正確な製法は知らない。が、その名の通り、葛粉を水でといて加熱するだけ、というごくごくシンプルなやり方であろう。熱するだけで、喉とおなかにやさしい即席お手製スイーツに仕上がるのであるから不思議。

ほどよい甘味は、もちろん加糖によるものだったろうが、葛粉のでんぷん質そのものが糊化(こか)する過程でとろみとともに、独特の風味を出していると思われる。

あの頃は、くず湯が食べたいばかりに無理して風邪を引いたものだ……はさすがにないが、風邪を引くたび母のくず湯が楽しみで楽しみで仕方なかった。

かくも美味しさ先行の飲み物(食べ物?)なのに、今回、改めて調べてみれば、葛粉の原料たる葛の根っこからとれたでんぷんには解熱作用をはじめとした薬効がちゃんとある、といたるところに書いてあるではないか。それが証拠に、葛根の効能を製品化した「葛根湯(かっこんとう)」は、長く風邪に効くと多くの人々に愛用されてきた。

ただ、肝心のくず湯の方はどうかといえば、家族の風邪や発熱に自家製くず湯を作ることを励行している家庭はいまやほぼ皆無ではないか。

理由は色々あれど、まずは材料の「葛粉」自体がいまや非常に高価な高級品となっていることがあろう。例えば、Amazonで葛百%の「吉野本葛」を検索してみれば、2百グラム程度でも2千円は下らないし、少し大袋となると2万や3万も珍しくない。くず湯は、もはや「ありものの材料でちゃちゃっと作る」というシロモノではなくなってしまっているのだ。

もっとも、くず湯が家庭という家庭から駆逐されてしまった一番の理由、それは、都市部なら「開いてて良かった!」のコンビニ網が徒歩圏内にほぼ張り巡らされてしまったことと無関係ではない、と踏んでいる。仮に夜中に子どもが発熱しても、コンビニに走れば風邪の対処療法用品はなにかしら手に入る。

例えば、水分や電解質の補給に役に立つというポカリスエット やアクエリアス。コンビニでポカリやアクエリさえ手に入れられれば、くず湯いらず……どころか「お母さん」いらずの時代となって久しい。

また、コンビニの棚に百花繚乱並ぶパウチ式のゼリー飲料なら、行平鍋もお椀も汚すことなく手軽に糖分やエネルギーが補給できる。

ただ、果たして僕らはいまもくず湯を美味しい、と感じるだろうか、という根本問題はある。

最後にくず湯を口にしてから(僕の場合)ほぼ半世紀近く経っているではないか。スタンダールいうところの「恋愛の結晶作用」ではないが、美しい(美味しい)思い出だけがザルツブルクの塩坑に投げ入れられた小枝が長い年月を経てダイヤモンドのように輝くが如くに美化され過ぎてはいまいか。

ならば実証実験とばかり、「やってみた」の動画を自作してYouTube! に上げるのがワカモノのトレンドと頭では分かっていても、ただただ面倒である。

亡き母を偲び、亡き母のくず湯を懐かしむようにして「やってみない」僕はせいぜい中村屋さんに通い倒すのみ、くず湯……あ、いや、くずきりの灯火を絶やさないためにも。



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