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水に落ちた長谷川岳は休み休み打て

長谷川岳さんと直接言葉を交わしたのは数回しかない。彼がまだ参議院議員に初当選する前の札幌でのことで、すでに北大は卒業しておられたから、ご自身が立ち上げた札幌のYOSAKOIソーラン祭りで専任的な役割を担われていた頃かと思う。「数回」のなかでも、非常勤先の北星学園大学のキャンパスで偶然鉢合わせになったときのことだけなぜかいまも鮮明に覚えている。あの頃は、長谷川さんも僕を僕と少しは認識されていたと思う。その実、向こうから、

「おや、先生」

と声をかけてくれたが、いまや、こちらが率先して「先生」と呼ぶべきか。いやいや、本稿の結論部分を先にいえば、医者や教員は腐っても先生だが、国会議員は国民によって選挙で選ばれた民主制の代理人。それ以上でも以下でもない。間違っても「長谷川先生」などと奉ってはいけないのである。そんなこと本人たちが喜んでくれるんなら呼び惜しみはしない、という寛容なお考えの向きもあろうが、議員——とりわけ国会議員——の横柄さやああ勘違いは、案外、その辺りに源流があるのだから。

で、その長谷川先生……あ、いや、長谷川さん、地元紙の北海道新聞はもとより、ほぼすべての全国紙、NHKを含む全国ネットのニュース番組、加えて、極右から極左までほぼすべての政治系YouTuberたちから叩きに叩かれている。

主には自治体職員などに対する恫喝、叱責、マウント、不当な謝意や謝罪の要求など、ありとあらゆる立ち居振る舞いが白日の下に晒され、吊し上げの対象となっているのだ。しかも、それら暴言の数々は、面白いように「被害者」によって秘密裡に録音され、次々と公開されてしまうのだった。

正直、僕もはじめは、

「長谷川くん、やられてるやられてる。落選中、毎日辻立ちしてた頃は頑張ってるなあ、と思ってたけど、議員バッヂ付けてそれなりの月日が経つと、だんだんとメッキが剥がれてくるよな。そもそもの人間性もあるんかな」

などとお気楽な評論家気取りで家人に軽口を叩いていたわけである。

ただ、今朝もまた、

「長谷川岳氏、道議にも威圧か? 自民北海道連が改善要求へ」

などといったネット記事の見出しを目の当たりにして思う。長谷川岳叩き、ちと執拗に過ぎはしませんか、と。

赤の他人と無二の友だちとの間には無限のグラデーションがあるとして、僕は長谷川岳の「無二の友だち」として彼を一所懸命擁護したいのではない。先にも書いたように、過去に数回接点があるだけの、どちらかといえば「赤の他人」寄りの一傍観者として、この水に落ちた犬の打ち方はさすがにどうなんだ、と思うに至っている。

「水に落ちた犬を打て」は魯迅の言葉だとされる。

あるとき魯迅の弟が魯迅に、いくら犬が憎くても、水に落ちた犬をさらに打つことは感心しない、と意見したという。すると魯迅は烈火のごとく怒って弟を嗜める。

「たとえ水に落ちたとしても、悪い犬は絶対に許してはいけない。もしそれが人を噛む犬であれば、陸上にいようが水中にいようが関係ない。石を投げて殺すべきだ。中国人によくあるのは、水に落ちた犬をかわいそうと思い、つい許してやったために、後になってその犬に食べられてしまうという話ではないか。犬が水に落ちたときこそいいチャンスではないか」(『対話のために: 「帝国の慰安婦」という問いをひらく』(クレイン)より四方田犬彦「水に落ちた犬を打つな」)

この魯迅の言葉を紹介した四方田犬彦は「恐ろしい言葉である。つねに国民党政権に生命を狙われ、友人や弟子を次々と殺されていった知識人にしか口にすることのできない、憎悪に満ちた言葉である」と解説を付している。

魯迅の「水に落ちた犬を打て」は分かった。翻って、長谷川岳は、確かによく吠える犬には違いないらしい。愛知県春日井市出身の彼、記者の質問に答えて、

「名古屋弁だとついついきつく聞こえてしまう」

というような苦しい弁明も試みている。

ただ、よく吠える犬をよく噛み散らす犬と喧伝もし、調教に失敗もした自分たちを棚に上げて、「長谷川があ」、「長谷川があ」と秘密のエピソードや録音を小出しに出している自治体側に、とりわけ知事や市長などの首長の側に落ち度はないのか。

加えて、学歴詐称疑惑の小池百合子や、妻の元夫の不審死を巡る疑惑の木原誠二など、明らかに首まで水につかっている面々を見て見ぬフリする同じマスコミが、政治家としてははるかに小粒の長谷川岳にだけはメディアスクラム的に総出で、しかもねちねちと襲いかかっていることに忸怩たる思いはないのか。——違和感を禁じ得ない。

水に落ちた長谷川岳をまったく打つな、といってはいない。彼もこれを機に大いに反省し、言動を改めるとともに、もっと真摯に議員としての職責と向き合うべきと思う。ただ、水に落ちた、あるいはいまにも落ちそうな政治家のなかで、打つと打ち返されそうなのだけ外して打つのは卑怯というもの。官僚機構は、マスメディアは政治家にもっと正面から対話なり、対立なりを挑むべきである。

ほら、こないだまで池に落ちてた小池が、木原が無傷のまま、もう陸を闊歩し始めてるよ。







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