息子夫婦と千駄ヶ谷散歩
日曜日、長男夫婦がランチをご馳走してくれるというので、妻と渋谷経由で地下鉄副都心線の北参道駅へ。
札幌から東京に戻って3年。やっと浦島太郎感覚は抜けてきたが、それでも明治通の神宮前から千駄ヶ谷にかけたこの一帯は、居並ぶハイライズのオフィスビルやマンションの個性的な意匠や圧倒的な質感にまだまだ気後れ気味。四半世紀前とは隔世の感がある。同じビルを建てるにも、坪単価が高い分、施主の資本力、建築家の入魂ぶり、加えて店子の期待感がケタ違いに大きいのだろう。空ばかり見すぎて、目的地のイタリアン「トラットリア タンタボッカ」に到着する頃にはすっかり首筋を違えていた(ウッソー)。
「この辺り、若い頃の土地勘しかないものだから、今日のランチはホープ軒かなと思ってた」
と僕。
「ホープ軒、まだあるある!」
と長男。
「タクシーの運転手さん御用達のお店で、あそこのラーメン求めて明治通沿いにいつもずらっとタクシーの行列ができてたわよね」
と妻。
「ホープ軒の方が良かったですか? なんなら、いまからでも移動します?」
とショウコちゃんがボケたところで、冷製のとうもろこしスープからこの日のランチがスタートしたのだった。
それにしても、かつて僕自身、こんな小洒落たレストランに実の両親や家内の両親を招待したことがあっただろうか、と考えた。
いまは亡き義理の父と二人して、西荻窪の名店「こけし屋」でフレンチを一緒したことだけが僅かに記憶にある。メインのお肉をすっかり平らげたあとも、義父がフォークとナイフでナニモノかをこそぎ取ろうとしている。よくよく見れば、食べようとしているのはお皿の縁の絵柄だった。
あの頃の義父までは、僕は未だボケてはいないが……と信じたいが、正直に言おう。緑内障で視界のコントラストが若干弱くなったいまや、時折やらかすのはあのときのお義父さんと五十歩百歩のこと。歳をとる、ということは悲しくもあり可笑しくもある。
お勘定書きが来て、やおら尻ポケットの財布からクレジットカードを取り出したら、
「あんたが払うのかい? ホントにご馳走してくれるのかい?」
満面の笑みを浮かべた義父が僕に何度も訊いてきたことを昨日のことのように思い出す。
で、こちら千駄ヶ谷のイタリア料理店。食事が終わり、無事、お勘定も息子が払い終えたのを見届けると、4人して店外へ。ギラギラとした真夏の太陽がアスファルトをぐにゃぐにゃに溶かそうかという時間。息子夫婦は二人ともすでにサングラスをかけているではないか。妻が慌ててバッグから出した折りたたみの日傘を横から奪い取ると、妻の方の日差しを重点的に遮りながら50メートルは一緒に歩いただろうか。ほどなくして、日傘を妻に渡し切ると、僕は僕で太陽を全身で受け止めると覚悟を決めた。
無防備な顔や二の腕が丸焦げになり切る前には、お嫁さんオススメのアイスクリーム屋「フィルクリーム」に着いたには着いた。が、狭い店内はすでに先客でいっぱい。
「ここのアイスはオリーブオイルをかけて食べたりするちょっと変わり種で。でも、これがなかなかイケるんですよ!」
と、ショウコちゃん。未知との遭遇に気持ちは高ぶるが、あまりもの暑さに4人、阿吽の呼吸で列に並ぶでもなくアイスは断念。次なるカフェを目指してさらにブラタモリ……ならぬ、ブラタルミ家は続くのだった。
隈研吾の新国立競技場を目視で見上げるのはこれが初めて。思ったより小ぶりと感じるのは、そのあまりにもプロポーショナルなデザインに起因するのかもしれない。建築はまったくの門外漢なれど、一度は採択されながら、その後、白紙撤回されてしまった悲運のザハ・ハディド版も拝んでみたかった。どうせさんざん大赤字の東京五輪。いっそ2つ並べて建てても良かったのではないか。
新国立を左手に仰ぎながら、ビクタースタジオの交差点を左折すると、お目当てのカフェ「ブルーシックスコーヒー」がすぐに見えてきた。「ブルーボトルコーヒー」のスピンオフかなにかと思いきや、
「いえ、あちらとはまったくの無関係でして」
ときっぱり店員さん。いや、絶対に意識しとるがな、と内心、疑惑をさらに深めつつもエレベータで2階に上がれば、そこは(月並みだが)都会のオアシスと呼ぶに相応しい空間。三方に開けた景色がザ千駄ヶ谷で、これなら相手がブルーボトルでもちょっとやそっとでは太刀打ちできない。
建築家の守田昌利先生とそのパートナーのエコウさんに出会ったのは5年前。守田先生はいまはもう鬼籍に入っておられるが、お会いしたときはまだお元気で、住まいのこと、住まい方のことについて色々と教えていただけた。
若い時分から都内の著名な大型マンションなど、数々のランドマークの設計を手がけてきた守田先生であったが、共同経営者の借金を保証人として背負い込み、千駄ヶ谷小交差点からすぐの自社ビル設計事務所は人手に渡り、個人的にも破産を余儀なくされたのだとか。そんなときも、建築家としての守田先生の才能に惚れ込み、物心両面で支え続けたのが、当時、会社経営者であり、僧侶でもあったエコウさんに他ならない。
あるとき、かつての守田事務所からも遠くない神宮前2丁目に、伝説のマンション「ビラ・ビアンカ」の一室が売りに出たのだという。守田先生はエコウさんに、
「あそこの逆スラブ工法をこの目で見てみたいな。買わないか?」
と持ちかけたのだとか。守田先生の研究のためならと、エコウさんは金策に走ったという。やがて念願のビラ・ビアンカが手に入るなり、すぐにスケルトンにして、一度「逆スラブ構造」をむき出しにしてみたことは言うまでもない。
コンクリートキューブを積層したような、究極のモダニズム様式で、今日のデザイナーズマンションブームの先駆けとなった同建物は、竣工なんと1964年。まさに、1回目の東京オリンピックの真っ只中であった。すなわち、日本における集合住宅の発明と革新は、常にこの神宮前〜千駄ヶ谷辺りを舞台に起きた、と言って言えなくもない。さすがの暑さで、今回はもうJR千駄ヶ谷駅経由で吉祥寺に直帰したのだが、近くまた同じメンバーで来るようなことがあれば、今度こそビラ・ビアンカにも(あ、あとホープ軒にも!)足を伸ばそうと思う。
でも、万が一空室が出ていたらどうしよう。
「逆スラブが見たいな。買わないか?」
と息子に持ちかけようものなら、
「逆スラブ? 逆にそれこっちのセリフ。買ってくれないか?」
と言い返されそうで、いましばらくは二人の息子たちの成長を見守りたい。ぁー、楽しかった。