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大きなたぶの木の下で

中古の家を買う醍醐味は、外構というのか、植栽というのか……家周りをゼロから造り込まなくとも、それは漏れなく家と一緒に付いてくるということに尽きる。好むと好まざるとに関わらず、ではあるけれど。——実際、最初僕は、一緒に付いてきたその大木がさほど好みではなかったのである。

その木は、名前をタブノキという。漢字では「椨」という国字(和製漢字)一文字で表す(「椨の木」と書くことも)。したり顔で書いてはいるが、実は漢字表記はもとより、タブノキという名称そのものさえ半年ほど前まではまったく知らなかったのだ。知ったのちも、しばらくは「ブタノキ」と呼んだりもした。

ただ、一見して分かるタブノキの特徴は、ブタ/デブというよりは、むしろノッポ。とにかく上にうえに高く伸びることでつとに有名である。ものの本によると、高さ20mに達するものも。というか、他ならぬうちのこそはその20m級ではないのか。

ずっと以前、この土地に老舗の旅館が一軒あったのだとか。なぜタブノキをその宿のシンボルツリーに選んだのかは分からないが、沢山の小さな赤い実を付けることから「子宝の木」とも。泊まり客が子宝に恵まれますように……と当時の主人や女将が「沢山の赤い実」のご利益を期待したとしたら、その「ご利益」がすべての宿泊カップルに歓迎されたかは甚だ疑問ではある。

ところで、ときとしてタブノキを「この、ブタノキめが……」と罵りたい気持ちになるのも、その同じ「沢山の赤い実」のせいだ。沢山の赤い実は——あるいは、熟す前の「沢山の黒い実」も——知らずしらずにデッキに降り注ぎ、僕はその実を、毎回、裸足でうっかり踏みつけるのだった。

それでも、まだ黒く硬いうちは、「あ、痛っ……」てなだけなのだが、これが赤く熟していようものなら、踏み潰したときの、グジュグジュっとした、あの独特の足裏の感覚はなんとも形容しがたい。

ただ、世の中には色々と得体の知れないものを、まずは口に入れてみる、で、イケそうなら喰ってみる、というのを率先して引き受ける強者も少なくない。タブノキの実も、実は食べようと思えば食べられることを何人かのブロガーがブログに実体験として上げているではないか。

事実、タブノキの学名たるクスノキ科ワニナシ属の「ワニナシ」とはワニの表皮のようなイボイボ感ある梨、つまりは、大きな括りで言えばアボカドのことであるらしい。

もっとも、その形状たるやアボカドというよりはブルーベリー。一個一個がちっちゃ過ぎて、食するには得られる果肉と満足感が足りなさ過ぎるのだ。

「沢山の赤い実」をたわわに付けるタブノキは、他方で、小鳥たちにとっては一転、楽園なのだろう。いまやすっかり慣れっこで感動が減衰してはいるが、壁一枚隔ててベッドのちょうど真上にあるその木の茂みに、ありとあらゆる小鳥たちが集まっては、朝から一斉に鳴き声を競い合うのである。ブタノキどころか、(小鳥たちの)ウタノキの異名も持つとか持たないとか(知らんけど)。


2003年8月からの半年間、僕は中学に上がったばかりの次男と二人、カナダ・アルバータ州の小都市レスプリッジに暮らした。ロッキー山脈のすぐ東側に位置する大学都市で、当時8万人の人口に占めるレスプリッジ大学関係者(学生+教職員)の割合は20%近くにも及んでいた。滞在先であるその大学の威風堂々たるメインキャンパスは、眼下を悠然と流れるオールドマンリバー河岸の急斜面にあって、押しも押されぬまちのランドマークであった。

研究室をあてがわれた当初こそは、窓から望む雄大なカナディアン・プレーリーに圧倒されもし、魅了されもしたのだが、日々に違和感が募るのであった。乾燥した赤茶けた大地に育つのは灌木ばかり。日本でならそこここにあるはずの葉叢や森が、見渡す限りどこにもないのである。もちろん、それぞれの土地に個性があり、どの自然にも優劣はないのだが、同じ北米でもロサンジェルス(米)やバンクーバー(加)のような西海岸の風景に比べ、ニューヨーク(米)やトロント(加)のような東海岸のそれにより魅力と安らぎを感じるのは、緑豊かな日本に生まれ育っていることと明らかに連関があるのだと思う。

さて、漏れなく家に付いて来た大きなタブノキはそのままに、植木屋を入れて、このたびソメイヨシノの成木2本を足した上で、ツバキとコブシを新たに植えることとした。年齢も年齢で、この先の収入の先細りのことを思うと、配当を産まない冗費を庭ごときに投じている場合か、と自問することしきり。そもそも家そのものの売却も真剣に考えるべき時期に差し掛かろうとしているのだ。

ただ、思う。かくも立派なタブノキを過去の土地の歴史との連続性の中でいったん引き受けたように、僕が新たに植える何本かの樹木も、時間を超え、世代を超えて未来の誰かに引き継がれていくのだ、と。森をつくるほどの才覚も財布もないけれど、僕が札幌・円山のどなたかのお宅の白いコブシの花を毎年心待ちにしているように、新たに植える1本のコブシが、今はまだ他人の誰かの未来の糧となるかもしれない。そんな時間差の「配当」が気になる年齢になってきた。老人力? そこは、未だ、童心力とでも呼びたい。

コブシ(札幌・円山西町 2023春)



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