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パン屋の2階カフェへようこそ

大人と呼べる年齢になってからというもの、起きている時間のほぼ半分をカフェで過ごしてきた、といっても過言ではない。

学生時代は、愚にもつかない小説を大学やアパート周辺のカフェ……というか、喫茶店に長居しながら何作か書いた。いつしか「小説」はテレビ原稿に代わっていたが、そのまま場所を井の頭公園周りのカフェに移して、締切が近いものから順に台本をチャカチャカ書いた。札幌で大学の教員になってからは、円山辺りや洞爺湖畔のカフェをクルマで巡っては論文らしきものを書いた。そして、いまや、こうして誰の注文を受けるでもない駄文を、吉祥寺のパン屋の2階カフェで書いては、せっせとネットに上げている。

基本、書くことで生きてきた僕にとって、カフェなくしては思索も、創作も、研究も、居留守も(?)ままならなかったかと思う。

ここでは、理想の「仕事場カフェ」の要件を確認しながら、では、現下、どうしてパン屋の2階カフェが定席なのかを考えてみたい。

パン屋の2階カフェはお洒落すぎない

かつて僕の中でもカフェとは、お洒落な場所、居心地の良い空間であった。それがこの年齢になってみれば、お洒落さや居心地の良さでは我が家のリビングが他のカフェをすっかり凌駕しているではないか(※筆者の主観による)。するとどうだ。あたかもカフェが日常で、我がリビングが非日常であるかのような、一種の逆転現象が起きていたのだった。

もっとも、緑内障由来の見えにくさもあって、店ごとのこだわりや細かな配慮に注意が届きづらくなっている、ということもあろう。

つい先日も、ご近所すぎてなかなか足の向かなかったカンノンコーヒー吉祥寺店にぶらりと入ってみたのだが、

「なんで今日の今日まで来なかったんだろ……」

と、やたらめったら感激している妻を尻目に、僕はといえば、「確かにスタバのような居心地の良さで、しかもスタバではないところが良いね」程度の、控えめの感想しか言えなかったのだ。カフェ各店、店のテーマや意匠が洗練され過ぎてしまって、較べようにも五十歩百歩というのが正直なところ。

Kannon Coffee 吉祥寺店


その点、世のパン屋の2階カフェはおしなべてその出自は(主役のパンの)イートインスペース。快適さや清潔さといった最低限の条件さえ満たせば、過剰な演出はむしろ余計。そこのところが潔いと思えてきたから不思議である。

例えば、「せっかく内装は良いのに、椅子の座面の薄緑色がなんかね……」といったこともあるにはあるが、おダサいは一周まわって可愛い。寛容の精神が肝要である。

パン屋の2階カフェの衆人環視はほど良い

カフェだと仕事が捗る、の一番の要因は衆人環視にある、とはよく言われる。

例えば、大学教員はだいたいが「研究室」という名の完全個室をあてがわれているが、気がつくと居眠りばかりしている……のは僕だけ? 生来の怠け癖もあるが、そこには気にすべき他人のまなざしが決定的に欠けているのである。

仕事場としての研究室の対極にあるのがスタバの大テーブル。アメリカではコミュナルテーブル(communal table)などと呼んだりするかと思うが、要するに、相席が前提の共用テーブルのことである。

札幌では僕もよくスタバの大テーブルを好んで仕事場に選んだ一時期もあるが、あれにも欠点はある。PCからふと頭を上げてみると、期末試験モードの高校生男女にびっしりととり囲まれ、自分の場違いさに身も縮む思いをしたこと、一度や二度ではない。

その点、パン屋の2階カフェの「衆人環視」は、客の属性がほど良くバラけていてちょうど良い。

つい先日などは聖書の読み合わせをしている高齢の男女がいたりで、小声なだけにかえって神のお言葉にそば耳を立ててしまったほど。パン屋の2階カフェならではの光景かと思う。

もちろん、受験や期末試験対策の高校生を出禁にしているパン屋の2階カフェなどないが、高校生の側で、目に見えない、高い壁を感じているのは確かだ。そこの一員になったが最後、元の世界には戻れないなんらかの恐怖というか、そこに堕ちるくらいなら、マックやセブンのイートインの方がまだ「踏みとどまってる」感があるというか……。——パン屋の2階カフェの常連となるには、仏教にいうところの解脱というか、煩悩からの完全離脱が不可欠なのかもしれない。

パン屋の2階カフェは創造の現場である

センターキッチン方式のファミレスや宅配ビザが調理人の顔を見えなくして久しい。Uber Eatsも札幌駅構内のサンドリアのサンドイッチの自販機(めちゃくちゃ売れている!)も、「センターキッチン方式」の延長線上にある派生サービスである。

では、パン屋の2階カフェはというと、作り手の顔の見える現場がすぐ近く(真下!)にある、いまでは稀有な存在。すなわち、パン屋の2階カフェは、紛れもない創造の現場の一部なのだ。パン職人に負けじと物語を紡ぐ、原稿を書く、誰かと繋がる……にもって来いの場所なのである。

ならば、パン2カフェよりパン1カフェ(パン屋の1階カフェ)の方がより生産の現場に近いではないか、という向きもあろうかと思う。いやいや、パン1ではあまりにも「現場」やレジに近すぎて落ち着かない。近すぎず、遠すぎず……パン2の絶妙な放ったらかし感が有り難くも嬉しい。

パン屋の2階カフェは「般若の理解カフェ」?

なんだか仏教用語ばかりが並ぶが、般若(はんにゃ)という言葉は、古代インド語であるサンスクリット語の「プラジューニャ」やパーリ語の「パンニャー」に由来するという。それを言うなら、「パン屋」の方が
——「パンニャー」の方は特に——より親和性が高くはないか。そこで、大胆にも、「パン屋の2階カフェ」は「般若の理解カフェ」なのだ、という仮説を立ててみる。

「般若」とは、仏の智慧(ちえ)のこと。「智慧」とは、さまざまな修行を経て初めて得られるところの悟りのことである。仏教では、我々はもともと智慧を授かって生を受ける、と考えるのだとか。しかしながら、煩悩が邪魔をして、なかなかその内なる智慧の存在に気づかないでいるのだ。つまりは、般若の理解に至るには、それ相応の時間と修行が必要ということ。そして、それは「パン屋の2階に至る」のとて同じではないか。それは、パン屋の内階段を上がるだけの行為でありながら、高校生カップルや(歳だけとった)馬鹿ップルにはなかなか到達できない境地なのだ。

ずいぶんと遠くを彷徨して来たようで、吉祥寺の重力からは逃れられないと半ば諦め気分のいま、せいぜい般若の理解カフェで次なる構想を描いてみようかと思う。

ラケル吉祥寺店



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