欲の話

時計を書く際、何が大切かという話になった。知識か、お金か、あるいは時間か。個人的には、買いたいという欲だと思っている。対象を舐め回すように見ないと、やがて通り一遍のことしか書けなくなる。執拗に見続けるのに必要なのは情熱、と言われたが、実のところ欲でしかなさそうだ。対象が何であれ、欲を失った書き手は面白くないし、欲さえあれば読める物になる。葛藤が伴えば、それは立派な文学だ。

アガリ時計を買いなさい、とも言われた。しかし、理想的な時計を手に入れてしまうと、やがて書く気は失せると思っている。欲しいからこそ真剣に見るのであり、書くのであり、手に入れてしまえば、見る必要も、もちろん書く必要もなくなってしまう。

ある有名なシェフが「おいしい料理を食べたければ常にお腹を空かせなさい」と語ったのはまことにその通りで、職業人として「それ」を続けられるかは、健全に欲を保ちつづけられるかどうか、だと思っている。別の言い方をすると、自律的に飢えることができるか、だ。腹がくちくなったら食べるのを止め、飢えたら少し腹を満たす。もっとも、何をいつ食べるのかは意外と難しい。

高額な時計は、もちろんよくできている。ただ人は、いつも目にすること、手にする物に引きずられてしまう。そこを自覚しないと、人や物に対する見方はたちまち固着してしまう。筆者は、高価な時計を手にした一部関係者が、いくら以上でなければ時計ではない、と放言するのを見てきた。

コレクターであれば構わないが、3000万円の時計、300万円の時計、30万円の時計、3万円の時計を同じように舐め回すことができなくなったら、職業人としてはおしまいだろう。物は買わないとわからないし、頼るべき物差しは持つべき、と思っている。しかし、持って見方が固まるぐらいなら、むしろ手にしない方がいい。偉そうな物言いをすると、これも欲のコントロールのひとつ、になる。

欲を飼い慣らすのは、かなり難しい。かくいう筆者はほぼ失敗した。欲をコントロールできるほどの人間であれば、そもそも別の仕事で成功しているのであって、できないから書くことで口に糊している。ライターというのは、筆者を含めて、例外なく社会的な脱落者である(もちろん異論・反論はあるだろう)。それが欲を制御しようと試みているのだから、我ながらかなり滑稽だ。

欲しい時計を見て身もだえし、しかし、買わないことを決めて煩悶する。お酒があるからいいようなものの、なかったら、とっくに発狂していたのではないか。職業人として続けているが、どこまでもつかは我ながら疑わしい。

職業人ではなく、いっそコレクターに戻ってしまえば楽かもしれない。彼ら・彼女らが時計を買い、時々手放すのは、たとえとして適切ではないが、食事を楽しむためにローマ人が嘔吐したことに似ている。腹がくちくなるまで食べ、吐いて、また食べる。吐かずに食べ続ける人もいるが、それは怪物だろう。もちろん褒めている。食べるほど飢え、さらに食べて飢えられるのは、希有な才能だ。欲のコントロールに腐心する筆者からすると、そういうコレクターたちの生き方は、例外なく羨ましい。少なくとも、欲に対して忠実で、生き方に嘘がない。

もちろん、欲から脱落することもある。業から足抜けできておめでとうと言いたくもなるが、やっかいなことに、必ずしもそうとはならない。欲は失せたのに、過去に得た知識や経験がアクのように残ると、出来の悪い皮肉屋になる。たとえるなら、別れた女の悪口を言い続ける男だ。

筆者がコレクターに戻らない理由は、間違いなくそうなる、という確信があるからだ。欲だけでなくアクも抜ければ言うことなしだが、過去に蓄積した“何か”を惜しげなく捨てられる人は、そもそも何者か、だ。もちろん、筆者はそうでなく、だからこそ未練がましく時計の話を書いている。さて、どうやって、欲を飼い慣らしていきましょうか。

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