「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (1)」 アートの公共学(8) 『テアトロ』 2018年7月号

いまセリーヌを、その文脈について

 ここ数年、解体社がフランスのコラボラトゥール(対独協力者)であり、反ユダヤ主義者として糾弾を受けた作家、ルイ=フェルデナン・セリーヌのテクストを使って、もしくはセリーヌを通して作品を作ることを試みている。二年前には、セリーヌの作品をモチーフとした三部作が作られた。その時は率直のところ、いまセリーヌを取り上げることが、どの文脈によるものか、いささか唐突に映った。再びセリーヌが話題になっているとは、とても思えなかったからだ。一般的には『夜の果ての旅』の作家として知られているだろうが、それ以外の著作が広範に読まれているとは思われない。欧米では反ユダヤ主義者であった余波で読むことができないテクストもある。たとえ日本では全集が出版されているとしても、特別いま注目されているとはなかなか言えないだろう。

 しかし、セリーヌの作家性とは別に、反ユダヤ主義者でありコラボラトゥールの作家としての文脈は、かつてならば福田和也の『奇妙な廃墟』に描かれたように、消された作家たちの系譜に連なる。反近代を謳ったものたちが民族主義やナショナリズムと結びつき、ある点を超えると背反するはずのアナーキズムや左派のイデオロギーと親近性を持つ。そのような現象は、なにも当時のコラボラトゥールたちだけに限らない。たとえば、アンダーグラウンド演劇を含めた、ニューレフトたちの浪漫的な要素との相関関係も透かして見ることができる。

 90年代の小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』や加藤典洋の『敗戦後論』など、右傾化や左翼の後退と思われた頃から時代はかわっても、いや、その状況はより進み、グローバリゼーションの動きは、保守や右派の隆盛と同じく、左派を含めて双方から反グローバリズム運動を生み出している。それは、ポリティカル・コレクトネスの息苦しさも相まってトランプを誕生させ、ブレグジットやイスラミック・ステートですら、その中に位置付けることができる。

 かたや左派の反グローバリズム運動は、グローバリゼーションという新しい資本主義、もしくは国家を超える資本の欲動への批判として、ローカリティを擁護する。左派が弱体化しているとしても、反グローバリズムの動きは顕著にある。むろん、卑近な例ではオリンピックをはじめ日本を鼓舞する動きは、落ち目の国家にありがちなナショナルなものを喚起する快楽だ。それらは、テレビ番組をはじめ、ポピュラー・カルチャーなど、あらゆるところで散見される。ウェブやSNS界隈でたむろするネトウヨやパヨクたちの一喜一憂する応酬はその顕著な例だ。

 そのような状況の表象として、または深く批評するために、セリーヌという作家が取り上げられたのだろうか。ただし、2年前の「セリーヌの世紀」と題された三部作は、3作目は未見だが、試行錯誤の段階という感があった。3部作それぞれにセリーヌを代表する作品のタイトルが冠されていたが、大まかな印象ではまずセリーヌそれ自体を説明することがあった。そして、いかにテクストを扱って、作品へと結実するべきか。いままでもテクストは使われていたが、いつにもまして解体社がテクストを扱い始めたことに挑戦していた。いわば身体や空間を構築するためにテクストはあったが、テクストが身体を読み込もうとしたのだ。しかも、より鮮明に一人の作家のテクストをモチーフにした。それは、単なる新しいシリーズというだけでない試みとなった。

身体(人体)とセリーヌが交差するところ

 最新作である『人体言語/虐殺のためのバガテル』は、それらの段階を経て、いくつもの文脈が混じり合う、重層的な作品へと進化している。解体社のアトリエでもある市ヶ谷の佐内坂スタジオで、その公演は行われた。いまどきアトリエをもつ集団は珍しいが、それがあるからこそ、今もって特異な表現活動を継続できる強固な集団制が備わっている。

 その文脈の一つにあるのは、いままでの解体社の作品にも現れている身体性の問題だ。あらゆるものに抑圧される身体の位相を提示しながら、そこに抵抗としての身体の強度を映す。いわば、生政治のなかへと取り込まれた身体、解体社の言葉で言えば、パフォーマーたちの「人体」を、剥き出しの生として暴き出すことがある。

 このアガンベンの唱えたモチーフは、一時期、解体社のパフォーマーの身体、もしくは作品そのものの指標となった。その後の二〇一〇年代の初期に行われた一連の作品たち、ポーランドの劇団、テアトル・シネマとの共同制作のテーマである「ポストヒューマン・シアター」も、そこに関連する。

 そのテーマによって作られた作品群のなかから、シーンを一つ挙げてみる。パフォーマーたちが一心不乱に同じ身振りでひたすら踊り続けることがある。背景の映像では、崩壊したリビアのカダフィ体制と、その希望的理念が流される。それを前にしたダンスは、アメリカというグローバリズムの「帝国」が、デモクラシーの限界とも言えるだろうが、そこからはみ出たものたちに与える帰結を示すようだった。

 あえて名付けるならば、「カダフィ・ダンス」は、暴発的な身体とひたすらに同じ身振りを激しく繰り返す、もしくは繰り返すしかないように仕向けられる状態となる。まるで、その先には死しかないということが端的に表される。むろん、カダフィ体制が良いとか悪いとかいうレベルの話しではない。さまざまな場所で行われるアメリカ的正義の介入は、正義が正しいシステムとされてしまった以上、システムによってそこにいることしかできず、その正しさを生きるしかないのだ。

 それは、そのような世界の人間でいることを構造として強要されている。だから、人間というものの後に、人間はいかにあらわれているのか。それは、ポストヒューマンやサイボーグといってもいいし、動物といってもいい。その言葉が出てくる背景には、少なくとも、従来の言葉で人間なるものの位相が捉えられなくなっている現状がある。

 もう一つの文脈は、そこで使われるテクストたちにある。それらは、とくにセリーヌなどのテクストを通して読みこまれる身体だ。セリーヌのテクストをパフォーマーが発することはもちろんあるが、単に物語を追うことはない。それらのテクストの断片の言葉たちによって身体もまた一つの読まれるテクストとなる。

 そもそもセリーヌの作品たちは、いわゆる物語の筋を追うものではないだろう。そのエクリチュールである、呪詛にまみれたかのように書かれた言葉たち、文体にある。フランス語のできない私にとって、しばしば語られる文法の規範を無視して、うねるように書かれたとされる文章は、日本語で読んでいるだけではとくに掴みづらい。しかし、恐れずに言えば、そのようなテクストを解体社は身体で読み、提示しているといえるのではないか。いわば、強度と錯乱というエクリチュールが身体の場に変換される。いくつもの文脈や層が重なると述べたが、それはエクリチュールのみではない。先に述べたいま上演することの必要性ともいえる外在的な状況も含まれる。セリーヌの反ユダヤ主義の呪われた作家としての面だ。芸術と倫理とは切断できない。その両方を抱合してしまう美がある。しかし、だからといって、単に許容はできないだろう。それは差別するもの、されるもの双方の立場において残るだろう。それはポリティカル・コレクトネスそのものであると同時に、そこに覆われた世界においては、それを突破するための文脈として読まれてしまう危険性もある。

 今作で扱われるテクストは、確かにセリーヌを主調としているがそれだけではない。水平社宣言から始まり、セリーヌの反ユダヤ主義のテクストの出版を許諾しない未亡人が書いたテクスト『セリーヌ 私の愛した男 踊り子リュセットの告白』もある。それは夫への愛を綴っているが、同時にその夫が描いたテクスト『虐殺のためのバガテル』の引用と両立している。タイトルにもある『虐殺のためのバガテル』は、日本語訳では『虫けらどもをひねりつぶせ』として出版された。セリーヌの反ユダヤ主義の論調がこれでもかと含まれている。また、その反響はどのようなものだったのか。当時のフランスの新聞の書評も多分に引用される。

 他には、デリダの晩年の思想であり、講義や講義録として残されたまま未完に終わった「動物論」などもある。扱われたテクストだけを述べると、それは多岐にわたると同時にに恣意的なものに映るかもしれない。しかし、これらのテクストに理由があることは確かだ。たとえば、デリダはユダヤ人であり青年期まで過ごしたアルジェリアで差別を実際に色濃く受けている。

 一見すると、解体社のパフォーマーたちの身体と作品の形式自体に劇的な変化があったわけではないかもしれない。しかし、解体社の蓄積とその深度によって、まるで同じところを巡っているようでありながらも、それこそ二つの楕円のごとく、それは徐々に重なりながら、いつのまにか新たなる試みのものへと生成変化を遂げようとしている。


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