「オイディプスはわれらの同時代人」 『オイディプス王』、『ガリバー旅行記』舞台評 (ルーマニア、ラドゥ・スタンカ劇場) 『テアトロ』 2016年9月号

 なぜかしら、ここ最近ギリシャ悲劇の上演がよく目にとまる。もちろん、これは統計を取ったわけではないので、たまたま上演されているギリシャ悲劇の作品が目についたというだけの話だろう。これまでだって折にふれて目立った上演はされている。しかし、ギリシャ悲劇が上演されていることを、状況と重ね合わせながら認識せざるを得なかったことも確かだ。

 たとえば、東日本大震災が起こってからしばらくの間、『アンティゴネー』の上演が目についた。国家の定めた法と親族関係の規範という対立図式で『アンティゴネー』を解釈すること。それは、ヘーゲルが『精神現象学』で述べる個人から国家へという弁証法の敷衍であった。その古典的なアンティゴネー解釈が、対立軸を保持したまま、まったく揚棄されることなく震災後の状況にはあらわれていた。ジュディス・バトラーの『アンティゴネーの主張』による、アンティゴネーの反抗は「乱交的服従」として多義的な多様な価値としてあらゆる性の規範を逸脱していく存在であった。現代の象徴として古典的解釈を読み直したものであるが、いったん国家が前景化されると、その解釈の斬新さは後景に退き、以前に逆戻りしてしまったようだ。震災後の『アンティゴネー』をモチーフにした作品の上演は、作家の選択か時代の要望なのかは分からないが、危機の時代の兆候を示すものとなった。

 そして、昨年世田谷パブリックシアターが製作して上演されたワジディ・ムワワドの『炎 アンサンディ』もまた、『オイディプス王』の物語を現在の中東情勢と移民たちの問題へと入れ込んでいた。神話が現実を照らしだそうとするよりも、現実の世界のなかにある物語として神話は機能している。それは歴史的にも空間的にも遠く離れた話ではなく、たとえ日本という場所であっても、グローバリゼーションの傘下のなか、いまここにもある現実を提示していた。古典というものの本質の一端ではあるが、シェイクスピアに限らず、古代のギリシャ悲劇や喜劇そのものが、同時代性をもち現代に合致する要素がある。だから『オイディプス王』もまた、波はあるだろうが時代の表象に回帰してくる。

ラドゥ・スタンカ劇場の『オイディプス』

 ルーマニアのラドゥ・スタンカ劇場が東京芸術劇場で公演した『オイディプス』と『ガリバー旅行記』。これらは直截的に現在の具体的な問題に古典を変換するような作品ではないが、いまオイディプスとはなにか、ということを強く考えさせられた。この『オイディプス』は、ソフォクレスの『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』の二つが一作となったものだ。単純に続きで上演するのではなく、『オイディプス王』を挟み込むような形で『コロノスのオイディプス』がある。筋自体はそのままでも、それが非常にシンプルに、しかしある力強さをもって描かれる。

 エウメニデス(慈しみの女神)という場所に、流浪の果てにアンティゴネーとともに辿りついたオイディプス。『コロノスのオイディプス』の最初のシーンであり、それが冒頭に入れ込まれる。コロスが身の上を聞こうとするが、オイディプスは口籠もって応えようとしない。だが、名前を口にすることが、何が起こったのかを人々に自然と知らしめる。そんなシーンだ。それから『オイディプス王』へと話は移行していく。つまり、『オイディプス王』へと物語をつなげることは、オイディプスの長い旅路とその出来事の回想という構図になる。

 ただし、『オイディプス王』が比較的物語に忠実な上演としても、シルヴィウ・プルカレーテの演出は、リテラルに物語を追うだけではない。そもそも舞台空間が物語を具体的に表すものではないのだ。東京芸術劇場の中ホールという大きな空間であるが、その劇場の舞台の上に置かれたのは、長い長方形の箱のような部屋。いわば大きな空間を区切るように設えられている。そこで語られるオイディプスは、一見すると壮大な物語とは遠い。むろん、主演俳優コンスタンティン・キリアックの力強い演技は、かつての王から一変したとしても悲劇を甘んじて生きる並々ならぬ存在感を醸し出している。

 だが、テーブルやワイン、並べられた椅子などありふれた家具を囲んだ部屋での話は、親族関係の話のメタファーともなる。それは、テーバイを襲う災害と王の過ちという避けようもない運命が翻弄する大きなテーマを、同時に近親婚とその結果生まれた娘や息子という家族関係の話にしている。その演出はいつのどの場所をモチーフにしているのか詳しくは分からないが、王の悲劇としての大きな物語とひろく現代の世界の中にある小さな物語の二つの位相に組み込んでいる。

 包帯を全身に巻いた不気味な女がオイディプスにまとわりつき、下手にはたむろうコロスたち。それはオイディプスの運命とそれを嘆き、怖れ、群衆として見つめるまなざしだろう。この舞台の抽象性はオイディプスを除いて、ほかの俳優たち、空間も含めてどこか無機質なのだ。それは素っ気なく居心地の悪い閉塞感漂う部屋というだけではない。

 オイディプスのみが当事者であって、まるでアンティゴネーやイスメネを含めて、悲劇に関連するものたちがどこか自分をも当事者にしていない。まるでオイディプスのみが中心となって、キリアックの演技も相まって運命へと巻きこまれていることを力強く示す。

 それは、その後閉じ込められたかのような狭い部屋の空間が壊れて、後ろにあったはずの広い舞台空間を含めて、白々しいまでの開けた世界が現れることでもわかる。パーティーにふける上流階級の貴族のようなものたちの庭園。その腐敗したかのような堕落した世界と前景のオイディプスとの対比は、悲劇的運命の中にいるオイディプスと隔絶した世界を示しているようだ。しかし、その世界も一発の銃声で途切れる。射殺されたものたちやその場を祓うかのような現代の救命員が現れる。それは華やかな世界そのものを含めて、大きな運命の歯車のただ中に巻きこまれていく。この舞台が日本で上演されてからすぐに起こったパリ市内の同時多発テロなども思い起こさせることができる。

 その無機質的な質感漂う舞台との対比として凄惨な出来事たち。この舞台はいくつもの対比の構造を、いくつもの層において同時に見せる。それぞれのコントラストとして舞台はある。ただし、それ自体がある事件や事柄を前にしたとき、私たちが取らざるを得ない選択肢として現れる。いわば、選択肢の多様性をうたっていたはずのある一時代、ポストモダンの一九八〇年代でもグローバル時代の二一世紀が牧歌的に喜ばれたときでもいい。それらは多様性のなかにあった。しかし、わずか一発の銃声を前にしたとき、そのようなものは後景に消え去る。それは思想として、ヘーゲルのときから結局は一歩も変わっていない、という徒労感もある。

 だが、このオイディプスだけは少し違う。それもまた古典的解釈かもしれないが、かれはさまざまな選択肢を前にして目を潰し、放浪をすることを選んだ。そして、運命を受け入れながらも実存をかけて投企しているように見えるのだ。このキリアックという存在はその意味で猛々しく悲劇を受け入れる強さをもっている。

 この舞台のラストもそうだ。細かい筋では解釈として演出家のオリジナリティも足されている。しかし、大筋ではまったく変えていない。この物語は、『コロノスのオイディプス』同様にオイディプスはひとりで去る。アンティゴネーもイスメネもおいて。その意味では冒頭の回想シーンは回収されることなく放置される。その孤独さは、たとえば現代の日本の学生運動の再びの勃興と同様に、時代がリバイバルしていることを予感させる。

『ガリバー旅行記』

 もう一つの『ガリバー旅行記』にもごく簡便にふれておく。原作は、当時のイギリスを風刺した古典的名作、スウィフトの『ガリバー旅行記』だ。この話もほぼ原作をなぞる。だが、あるところからどこからどこまで原作なのか、筋はこの作品のなかのイメージによって自由に描かれる。著名な第一部のリリパット国への漂着と旅するガリバーなどは入れ込まれるが、話のメインとなるのは日本の小説なら『家畜人ヤプー』で有名な、四部の馬の形をした優れた種族とは分けられる蛮族のヤフーのシーンだ。

 優れた種族である馬のフウイヌムには、実際の馬が舞台上に持ち込まれたりして、他にあるのは簡単な舞台装置であるがゆえに否が応でも観客の目をひく。そして人間たちが奇妙なヤフーという種族を演じる。確かにそれは、しつけや規律、馴致などを経ていないものであり従わされている。ただし、かれらは同時にその制度に反乱もする。そこから虐待や、堕胎、もしくは種の選別など、現代の遺伝子による選別と通じる世界が細かい筋を越えて描かれる。それは交配や去勢として動物に行っていたことが人間の世界にももたらされたことを示しているようだ。

 むろん、もともとこれはイギリスの貴族性や階級社会を批判していたものであり、その構造は現在もまったく変わっていない。むしろ、それを赤子たちの群れを舞台に置いたりして、いわば生まれる前から、もしくは人間の生というものが政治性のなかに囚われていることを提示している。

 いや、状況は十八世紀のイギリスをこえて、より悪化した世界的に逃れられない状況となっているみるべきだろう。


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