「殺人狂の通俗さ」 『新・殺人狂時代』 舞台評 (鐘下辰男作・演/流山児事務所) 『テアトロ』 2015年10月

 チャップリンの名作の一つに『殺人狂時代』という作品がある。二次大戦期に撮影され、一九四七年に封切られた作品だ。物語は一人の連続殺人犯が公判にかけられる。そこで彼は自身の罪を述べると同時に、大量殺人を許容する時代そのものをも告発する。そこには、一人を殺すことは罪となるが大量に殺すと英雄になる、という時代への痛烈な批判精神があった。だから当時、二次大戦もしくは共産主義との闘いを批判するものとして、この作品への風当たりはアメリカで強く起こった。マッカーシズムの時代へと続く過渡期であり、後にチャップリンがアメリカを離れることを思えば、彼の平和主義という信念の提示がいかに困難な時であったのかを示している。

 タイトルからのイメージではすぐにその作品を考えてしまうが、二〇〇〇年代前半に鐘下辰男が流山児事務所の公演のために書き下ろした『殺人狂時代』(「テアトロ」二〇〇二年七月号)、『続・殺人狂時代』(「テアトロ」二〇〇四年七月号)の二作は、むしろテロルと治安の時代の表象を映した作品だ。

 ただし、実際これらの作品のベースとなっている物語や着想は、また別の映画となる。一作目は『12人の怒れる男』、二作目はクエンティン・タランティーノの『レザボア・ドックス』。どちらの作品にも共通する点は、設定としてある閉ざされた空間で行われる、男たちの論議の行方に焦点が当たることだ。原作の『12人の怒れる男』は陪審員たちの有罪にしようとした印象が覆され、『レザボア・ドックス』は紛れ込むスパイを探し出そうと密室での話し合いがある。そこで行われる議論の道筋が、サスペンスであり物語となる。

 それらを物語のベースにおいて、議論を日本社会で叫ばれたネオ・ナショナリズムの台頭やテロルと治安の新たな関係など、九〇年代から二〇〇〇年代への変遷を含み書かれたものが、この二作といえるだろう。『殺人狂時代』では、テロを起こそうとする組織が集めた傭兵志望者たちに対して、テロ作戦に加わるか否かで密室での議論を要請する。一名だけ参加を希望するものに対して、残りの反対者が全員一致へ至るための白熱した議論の過程が、メンバーの信条などを浮き彫りにしながら描かれる。それは全体性と個人の意志という問題とも直結する。『続・殺人狂時代』はより発展した形として、それこそデパートを襲撃するというテロルと、そこから人々に決起を促すという作戦の決行とその失敗が描かれる。

 ただし、これらの設定は二〇〇〇年代に入った頃においては、なにも特異なものではない。あくまで時代の表象の中にあった、もしくは九〇年代という時代がもった幻想の平和の時代の終わりを提起する後期作品たちの一つだ。実際、ポピュラー・カルチャーとしてアニメーションに代表させるわけではないが、たとえば押井守監督の『機動警察パトレイバー』(八九年)、『機動警察パトレイバー2』(九三年)などが、それこそ密室の物語ではないものの同じように東京で起こるテロとその治安活動についてすでに描いていた。閉ざされた空間での殺人という設定では、九〇年代末の小説『バトル・ロワイヤル』などは物語の狂気性としては、行き着いた先を描いていたともいえるだろう。

 だから、今となってしまえば想像力によって日本にもテロルの時代、もしくはナショナリストたちの時代が再びやってくるかもしれないことを描くのは、目新しくはない。しかし、鐘下の作品に描かれるように、戦前のクーデター未遂事件、もしくは三島由紀夫のように一部のグループが決起して、人々を促しクーデター、もしくは右からの「革命」を起こそうとするような事件は実際には起こっていないが、もはや現実がそれらを追い越した趣がある。

 状況として一般人の意識にまで薄い皮膜のように覆うナショナリズムの風潮や、テロルの存在、それは登場人物たちの議論や描かれる状況よりも、はるかに現実がイメージを乗り越えていったように思える。また首都におけるテロの可能性は、それが特定の政治団体や思想的なグループが起こすかどうかは留保しても、地下鉄サリン事件や9・11というアメリカ同時多発テロ事件などを例に出すまでもなく、現在を取りまく状況は想像力が映したかつての時代よりも、より先へと進行している。

 世界を覆うテロの時代の幕開けは、日本の内部からテロが起こるのではなく、世界の中にある日本という国家とテロの位置を措定せざるをえない事態となっている。だからこそ、インターネットで流れるIS(イスラミック=ステート)が処刑を敢行する動画が配信されてしまう状況を考えると、殺人狂の時代が通俗さとでもいうべき当たり前の時代となった観がある。

 だからいま再読すると、この作品が描こうとした物語は、まだイマジネーションによって追いつかないリアリティを書くことが目論めた時であったと思える。『続・殺人狂時代』の右翼の政治団体を思わせるテログループの計画が、デパートで一般人の人質を確保した後の交換相手に天皇を指定して殺害しようとするくだりは、皇民として日本の刷新を目指しながら、天皇の殺害を計画するという既存の右左の政治思想の崩壊、もしくは矛盾を指摘することはできる。だが、二〇〇〇年代前半ならば、フィクションとしてならば、まだいくつもの点で許容できる舞台だったのだろう。

 それは、〇〇年代の作品であったとしても、九〇年代的までの最後の左翼思想の残滓があったというのが大きい。たとえ左派的な視点から描かれようと、そこに共通するロマンティシズムは拭えないものがある。男たちだけの空間として戦場を描き、死をどこかで覚悟しなくてはいけないヒロイズムはもちろんのこと、同時にあくまで男たちだけのホモ・ソーシャルな空間である。むろん、戦場やそこに参加する傭兵だから、男たちだけがいるという設定はできる。しかし、それは日本の左翼のロマンティシズム、もしくはテロによって命を亡くしても、国家のために何かをなして死んでいくという、マチズモと左翼が重なる点、もしくは敗北の美学としてのナルシズム左翼といえる部分があるのではないか。

 それは「アングラ演劇」的なマチズモと揶揄されてしまうような、六〇年代演劇のもった浪漫派的な新左翼からの最後の連続性が潜んでいる。同じく八〇年代に出立して、九〇年代に頭角を現した坂手洋二の燐光群にも共通する点だろうが、マッチョ左翼という日本の左翼運動と思想に関わる限界が、演劇の表象を通しても現れている。

そして『新・殺人狂時代』へ

 それらを踏まえて『新・殺人狂時代』が、およそ十年ぶりに再び流山児事務所が主催して上演されたことに触れたい。演出は劇団チョコレートケーキの日澤雄介。ある一つの閉ざされた場所で繰り広げられる会話によって物語が作られるという設定は継続される。それがどの場所かは明示されないが、ほぼ暗闇のなかで作られる舞台のイメージから受け取れるのは、たとえば原子力発電所の作業現場だろうか。チリで起こった鉱山の落盤事故のように、閉じ込められてしまったものたちが救出されるためには何を成すべきか、彼らの議論が展開される。正しい筋道などはむろんないが、極限状態が近づくなかで優先するべきことを巡って、分かれた二つのグループの対立点が浮上する。その現場に潜り込んだジャーナリスト、選ばれたリーダー、少数者と多数、規律として従うことなど、テロの問題は後景に退いているものの議論の根底が踏襲される部分は多々ある。

 そこからは、社会階層的に虐げられた労働者の現状が見えてくる。原発労働者を思わせる彼らが何を考えているのか。さらにその中でも話し合いによって、それぞれの立場の違いが現れる。地元の労働者たちとどこか別の地域から派遣されてきた者たち、底辺労働者と一口に括られてしまうものたちのなかにでも、いくつもの階層と差異がある。自ら選んでこの場所で働いているはずの彼らは、危険であることを含めて、それを選択した人たちとされる。危険な場所を取材するジャーナリストもしかりだ。しかし、労働者たちは、そのような場所しか選ぶことのできない、もしくは巻きこまれざるを得なかったという基底がある。

 自らが選んで働いているゆえに個人の責任であるという自己責任論は、社会によって作られているはずの状況をすべて個人の問題にする。登場人物の労働者たちの関係と議論は、社会が要請する縮図として描かれる。自己責任へと社会が作ったはずの状況を還すことにより、自らで選択したという言い換えのロジックが働いているのだ。

 その逃れることのできない状況が、現代の社会と閉じ込められた極限状態の空間とのアナロジーとなっているのが、今作ではないか。最後に物語は、最終的により危険な場所から聞こえる救援を求める音の方へと、皆が向かうことで終わる。毅然とした選択を見せるが、それを自らが選択したという全体的な雰囲気の空間が作られる。そこに、結局マチズモ的な空気の醸成があるのもまた、過去二作と変わらない点だ。

 むろん、原発労働者の漫画『いちえふ』などに参照されるように、原発労働者の記録や状況は克明に説明されている媒体は写真などを含めて多々ある。それらは、原発の事故現場という危険が隣り合わせの状況まで−−−−彼らの状況を様々なメディアを通じて知らせるのは重要なことではあるものの−−−−まるで摩耗されたイメージとして、殺人狂時代の通俗さに変換させられてしまう。それは、この『新・殺人狂時代』にも関連する。

 『殺人狂時代』の凄惨さは、まるでサブカルチャーの媒体同様に、ありふれたイメージによって通俗さに落とし込められる。そこに現代の逃げ場のない現状がある。その表象を破ることではなく、より加担していくことにこの作品も位置してしまうのが、困難な時である現代なのかもしれない。


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