「森の直前の夜にたたずむ人」 『森の直前の夜』舞台評 (ベルナール=マリ・コルテス/佐藤信、笛田宇一郎) 『テルプシコール通信』 2019年7,8月 No.173

 コルテスには人を感化させる力がある。いや、正確にいうと、そのエクリチュールにあるというべきだろう。バルトの『エクリチュールの零度』にあるように、エクリチュールとは、単なる言語や文体を指すものではなく、それらが囲う制度をこえるべく、自由さへの機能としてある。むろん、日本語に翻訳された場合、それは翻訳のエクリチュールとも関係する。

 では、それが舞台で上演されたとき、どうなるのか。俳優がエクリチュールを語ったとしても、パロールとして消尽されたものとは言えない。それは、上演という行為によって紡がれる、身体のエクリチュールとでもいうべきものだ。いや、少なくともそれが求められる。だから、バルトほど演劇に言及した批評家もめずらしい。文学はもちろん、ブレヒトをはじめ、演劇のエクリチュールも同時に探求した。

 今回上演された、ベルナール=マリ・コルテス、佐伯隆幸訳の『森の直前の夜』は、すでに日本で何度か上演されている。たしか今まで二度観ている。日本で、日本語での上演という限定はつくが、それでも記憶をたぐりよせると、どちらも佐藤信が演出したものだ。一度目は黒テントの公演、俳優は斎藤晴彦。二度目は鴎座での公演、俳優は笛田宇一郎。二度目の公演の場所は、同じテルプシコールだった。そして、今回は俳優、演出ともに笛田宇一郎となる。

 その戯曲というよりも小説、もしくはテクストである『森の直前の夜』について記述することは難しい。少なくとも、物語や筋を追うものではないからだ。絶え間ない流れのようなエクリチュール。とめどないめくるめくつらなりを、だれかに投げつけるかのようにひとりの男が話す。そこから垣間みえるのは、たとえば性、階級、人種など、大げさに政治性を謳うものではないにしろ、それらが時おり浮上して何かにゆるやかに変遷して消えていく言葉たちだ。マドレーヌから意識に浮かんだ記憶を手繰るような上品なものではない。もっと粗野で、滑稽で、まるでこの世界にいながら、世界を外れた場所で見つめる男が、のべつまくなし愚痴り呪詛する。

 ただし、それが舞台となってあらわれたとき、そのあらわれとしての行為を記述することは、ただただシンプルだ。ひとりの男が身じろぎもせず、じっと立って話す。この演出の方法自体は、鴎座で佐藤信が演出をして、笛田宇一郎が出演したときと同じだ。しかし、そこで受けとった印象は真逆だ。むしろ、これほどまでにリテラルには同じことが、まったく違って浮かぶ。

 佐藤信が演出したときは、語る俳優とその身体が、おそらく演出の意図として、どこまでも希薄になっていった。ただ立つことによって、逆に肥大するかのような俳優のプレゼンスを徹底的に薄めるように、またひとり芝居で明確な物語もない膨大な言葉を話すという、大変な労力と同時に悦楽的な行為を、はるかに後景に退かせた。俳優に対して、舞台空間そのものについて、それは圧倒的に禁欲的なものだった。コルテスのエクリチュールに俳優の身体が覆われては消える。むしろ小さな空間をコルテスのエクリチュールで満たして、その言葉の渦に観客を巻き込ませる。観客が、その言葉たちを追おうと意識を集中させても、それすらも軽やかにかわす。むしろ、上演後にテクストを読む必要があることを思わせる。

 しかし、今回の笛田宇一郎事務所の公演は、それとまったく違った。床にはいくつかのオブジェが舞台美術として転がっている。そこで話される言葉たちは、一応に聞きやすく、とくに筋がつながるようなものではないのに、まるで頷かせるように語りかける。それは俳優としての存在感を、もしくは動かないとしても演技を、思うままにこれでもかと発揮しているように見える。そもそも演技術の一つにあるのは、朗唱術だ。わかりやすく、心地よく、相手に理解させる。テクストをパロールとして伝えることは、本来の演劇の役割だ。舞台のあとでテクストを読む必要があるのではなく、テクストという設計図をわかりやすく舞台にあげる、という、演劇的な、あまりに演劇的なことを気づかせる。その意味では、まるで王道なる演劇を観ているようだった。おそらくこの俳優は、いわゆる西洋演劇として、日本でいうところの近代演劇のスタイルとしての「新劇」なるもので、ふつうにお芝居をしても上手だろうな、と。いや、むしろ、これこそがお芝居である、と思わせる。

 同時にそれは、単に立っているだけといっても禁欲さとは違う。禁欲による快楽(マゾヒズム)は、逆説的に俳優の欲望を叶えるためのテクストを求めている。その意味では、確かにこの上演された作品は、俳優のためのテクストとなった。実験という言葉が遠のいて久しいいま、実験がもはや成り立たないことを、コルテスの上演を通じて気づかせられるアイロニーといってもいい。それは、同じようでありながら、全く違う二つのものを浮き彫りにした。

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