「ニューヨークとウースター・グループ」 『テアトロ』 2016年3月

 ウースター・グループ(The Wooster Group)。日本でもその名前を聞いたことがあるひとは多いだろう。ニューヨークを代表する実験的な劇団であり、その名前は世界中に轟いている。もっと言うならば、七〇年代以後のパフォーマンス史、もしくは演劇史において、実験的な劇団として彼らの名前は現代の古典として名を刻んでいる。まだ実験が実験として機能していた輝かしき時代。パフォーマンス研究の創始者の一人であるリチャード・シェクナーが率いた「パフォーマンス・グループ」を母体に彼/彼女らは生まれた。そして、ニューヨークという街の躍動する時間とともに歩んできた。

 たとえば、彼らを語るときに引き合いに出される本拠地のスタジオ。「パフォーミング・ガレージ」と呼ばれる、スタジオであり劇場でもあるその場所は、今となってはニューヨークのもっともおしゃれな地区、ダウンタウンのソーホーの文字通りウースター・ストリートにある。七〇年代の頃は、治安も悪く、アーティストたちがお互いを守るように肩を寄せ合って暮らしていた。まだ駆け出しのアーティストたちは、家賃(レント)の安い地域に集まるしかなかった。その経済的な問題は同時に、ジャンルを越えた若い息吹が接触しながら新しいムーヴメントを生み出す効果も合わせもった。その代表的な例がウースター・グループだ。

 むろん、彼らは実験の実験たる由縁である、新作には必ず新しいコンセプトやアイデアを持ち込む。単に、前衛的な表現として、かつては新しかった作品の形式を繰り返すだけではない。ニューヨークが懐胎するポリティカルな問題を鋭敏にかぎ取り、マルチ・メディアやコンセプチュアルな表現を用いる。そして、理論的であり難解な作品たち、というのが彼らの作品の一般的なイメージだろうか。すでに亡くなった初期からのメンバーであるロン・バウターやスポルディング・グレイも、単なるパフォーマーではなく、作品そのものに大きく関わっていた。演出家であるエリザベス・ルコントを中心に、ウースター・グループという集団で作品を作っていたといってもいい。

 ウースター・グループの初期を代表する作品『ラムスティック・ロード』におけるロン・バウターは、自叙伝的な長大なモノローグのドキュメンテーションを書き、それは映像を幾重にも重ねた表現にしてアイデェンティティの複層性を見せた。また、ウースター・グループの作品ではなくとも、エイズで亡くなったロン・バウターが、自身のセクシャル・アイデンティティと重ね合わせながら作った『ロイ・コーン/ジャック・スミス』などは、エイズで亡くなったゲイをテーマに、まったく相反するポジションの二人が描かれた。九〇年代の記念碑ともいえる、エイズ・アクティヴィズムとアートの結合として最重要な作品となった。

『初期シェーカー聖歌 レコード・アルバムの上演』について

 説明すればきりがないが、その彼らが昨年末に初めて来日した。みなが一様に初めてということに驚いているが、まだ来たことがない、世界的に名だたるニューヨークの実験演劇の騎手たちがいることを思えば、日本の同時代性とは何なのかが考えさせられる。招聘した「サウンド・ライブ・トーキョー」は、毎年開催される音とパフォーマンスのフェスティバルであり、今回はそのプラグラムの一つとしてあった。

 オープニングのプログラムは、灰野敬二の『奇跡』という作品。ピアノの八十八の鍵盤を一人が一つだけ受け持ち、同時に鳴らすというものだ。ジョン・ケージのサイレントの音の世界への挑戦ともいえる趣があった。八十八人が組み立てられたイントレに折り重なりながら、ピアノの周りに無理矢理たむろって、鍵盤をまったく同時に一音押すことは可能か、というハプニング的な上演だ。そこからも、今どき珍しい実験的な作品を、規模は小さくともラインナップしていることがわかる。

 そのなかの一つとして、ウースター・グループの『初期シェーカー聖歌 レコード・アルバムの上演』は上演された。年末の本当に慌ただしい時期に、わずか二日間だけの公演であったが、客席は熱気に包まれた。しかし、それは、単に観客の期待や満足に応えたということではない。むしろ、実験的な演劇という名にふさわしく、観客の期待しているウースター・グループのイメージを軽やかに裏切った。先に述べたようなパフォーマンスと映像メディアなどのハイ・テクノロジーとの結合、そして、理論をベースにしたポリティカルな要素というものを一見したところ後景に退けたからだ。確かに、このフェスティバルに相応しく、サウンドに関する問題がフューチャーされる。だが、それらはまったくアナログな方法となる。副題にあるとおり、一九七六年に発売された『初期シェーカー聖歌』というレコードを、上演という形態にすることが目論まれているからだ。

 かつて、新大陸アメリカへと渡ってきたピューリタンのグループである、クエーカーから分離した一派、シェーカー教徒。十八世紀以後、禁欲的であり、男女同権をうたった小さなコミュニティを作り、慎ましやかな生活をおくってきた。おそらく、分かりやすいイメージとしては、アーミッシュのようなコミュニティを想像することができるだろう。ただし、アーミッシュが自給自足の生活を基本としながらも、外界と接触を持っていたのに対して、より厳格である彼らは、その未来は細くなったのかも知れない。今となっては、清楚で品のあるシェーカー教徒が作る家具が、その面影を残す記念となっており、アメリカの片田舎にいけば彼らの残した足跡をミュージアムによって見ることができる。最盛期には数千人単位で生活したとされるが、いまとなってはミュージアムの周辺にわずか数人が残るだけである。

 今後、消えていく共同体。その彼らが残した一枚のシェーカー教徒の歌のレコード・アルバムがある。それをモチーフとして、この作品は驚くほど淡々と作られる。かねてよりルコントたちが、シェーカー教徒とそのレコードに興味を持ち続けたと言うわりに、舞台上で行われることは、非常にシンプルだ。実際、舞台美術も小さな机と椅子、窓枠など、最低限のものしかない。

 まず、レコードの曲のタイトルについて、舞台の脇に佇む男性からナレーションが入る。しかし、余分な情報はいっさいない。どのような曲がかけられるか、タイトルなどの最低限の情報が述べられて、それが何曲も順番に蓄音機でかけられる。ただし、四人ほどの女性のパフォーマーたちが、その音楽をイヤホンで聴きながら、その曲の歌の部分を歌う。舞台に流れるのは彼女らの歌う声のみであって、実際の音は客席に響かない。何曲も淡々と、彼女たちは文字通り、それこそ禁欲的にレコードという記録をただ執拗に再現する。まるで、自分たちが記録を伝える媒体(メディア)であるかのように。

 ウースター・グループの中心であり、通常は演出をしているエリザベス・ルコントがパフォーマーとして出演するなど、異色作では確かにある。今回は普段はパフォーマーであり俳優である、『ファーゴー』のヒロインを演じたことでも知られる、ウースター・グループのメンバーであるケイト・ヴァルクが演出をした。

 それが続いた後にシーンは変わり、シェーカー教徒が行っていたとされるダンスとまではいかないような踊り、ないし身振りがなされる。ここになると、男性のパフォーマーたちも参加して、それは幾何学的な動きも垣間見せつつ、位置をぐるぐると移動しながら踊られる。それも含めると、最初の禁欲的な歌声のみで綴られるシーンとは一変して、躍動感がある。ただし、この踊り自体も、特異な動きというわけではない。全体的な舞台の印象だけをとってしまえば、なにかを見つめようとしない限り、素通りしてしまうこともあるかもしれない。

 しかし、消えゆく共同体の記憶を、いかに記録し再現するかという問題は、この徹底的にアナログな方法によって、さまざまな思考を誘発する。たとえば、声を記録し再生するメディア、蓄音機(グラモフォン)について。それは、声という非物質的なものをレコード盤に定着させるものだ。空気の振動によって伝わる声を、レコード盤に記録した溝に針を滑らして振動させて拡張する。レコード盤という物質性だけでなく、それに身体性を与えるとはどういうことなのか。今はなき死者の声を上演という形式を通すことによって、肉化して再現している。

 確かに、かつては、消えゆくもののための記録・伝承する共同体のためのメディアとして、舞台芸術もまたあった。それは、劇場が記憶の装置であったということと同じだ。たとえ、現在のハイグレードな映像や詳しい記譜などによって、事細かに事実が記録されようとも、実はメディアの特性の違いだけで、記録方法としてどれも完全なものはない。少なくとも再現を行うときに、完全にそのものの姿を現すことなどはできない。

 グラモフォン、フィルム、タイプライターなど、それを記すために、書くこと、映すこと、録音する媒体は、歴史上いくつも出てきた。デジタルであれ、アナログであれ、記録の形態は違っても、実は形式が違うだけなのだ。その意味でこの作品は、失われる、もしくは失われたものを記録し再現することとは何かという、根源的な問いかけを提示している。その意味で、アメリカ、もしくはニューヨークという場所で実験演劇シーンを牽引しつづけるウースター・グループらしい作品だ。そこで使われるテクノロジーが、たとえ一見すると低くても、イロニーとしてそれはない。あくまで舞台の可能性を探究する、変わらぬ実験性を持ち続ける姿勢だ。


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